投稿者: にかとま

  • 「平気で遅刻するということは、相手の命を軽くみている証拠だ。」 ~千田琢哉『好きなことだけして生きていけ』

    好きなことをして生きる、というのに、憧れます。


    そんなわけで、次のような本を読んでみました。

    好きなことだけして生きていけ 人生を後悔しないために必要な49の習慣』
    (千田 琢哉(
    せんだたくや)、PHP研究所)
    ↑上の本は、僕が読んだ本とかなり近いのですが、僕の本は「50の習慣」が載っています。びっくり
    どうやら僕が読んだ本は古いバージョンで、今は文庫化されて新装丁になったようです。
    たった1つ、何の習慣が落とされたのか、気になります。(笑)
    僕がこの本を読んで特に印象に残ったところは、2つです。


    『好きなことだけして生きていけ』
    読書メモ
    ・35の習慣
     「大好きな物以外は、
    ​​  全部捨てる​。」​​
    (p156より)
    しょんぼりこれが、なかなか思い切れません。
      でも、確かに、人生が充実してそうな人は、好きな物だけに囲まれていて、無駄な物は周囲に置いていなさそうです。
      僕は昔からもったいないおばけにとりつかれていて、「もったいない」「いつか使うかも」と思ってしまうので、周囲の整理ができていません。
      課題です・・・。
    ・38の習慣
     「常軌を逸するほど、
    ​  ​時間厳守​にこだわる。」​
    (p168より)
    ・長期的な成功者が常軌を逸するほど時間厳守にこだわるのは、命を重んじるからだ。
    ​平気で遅刻するということは、相手の命を軽くみている証拠だ。​
    (p170より)
    号泣時間は命であるという主張を読んで、「自分は命を大切にしてこなかった!」と大反省しています。
      昔から、時間の見積もりが甘かったり、自分で決めた時間が守れなかったりしています。
      遅刻も多かったです。
      終了時刻を守れずに延長してしまうことも、多かったです。(←コレは、今でも・・・)
      「時間は命だ」と言われると、グウの音も出ません。
      少しでも時間を大切にできるように、「時間は命」ということを、覚えておきたいと思います。
      グウ。


    ​​​​好きなことだけをして生きていくには、こんなふうに、自らを律して、自律的な生活ができないといけないのですね。
    好きなことだけをして生きていきたいので、ちょっとはがんばってみようかと、思います。大笑い

    福島正伸『キミが働く理由(わけ)』6~いのちの理由
     (2010/02/01の日記)

  • 自分を生かす。そして、すべてを生かす。 ~鈴木隆祐『東海高校・中学校 カヅラカタ歌劇団の奇跡』

    宝塚歌劇を観に行った帰りに宝塚駅近くの書店で買って帰った本を、読み終わりました。
    (宝塚歌劇観劇の日の日記は、​こちら​。)

    『東海高校・中学校 カヅラカタ歌劇団の奇跡』
    (鈴木 隆祐(りゅうすけ)、駒草出版、2022/7、税別1600円)

    かなり刺激的な本でした!
    なにしろ、宝塚歌劇の、まんま、男の子版!
    すべての役を、男子中学生や男子高校生が演じているのです。
    しかも、それが本家の宝塚歌劇を彷彿とさせる再現度らしいのです。
    「これは、おもしろい!」と思って、数ページ立ち読みして、迷わず買って帰りました。
    そして、その甲斐あって、やっぱりすごく、面白かったです。
    劇の解説などは、劇自体を知らないとよく分からないところはありましたが、こういった「部活」が成立していて、その中で生徒さんが成長していることが、本書を通して、かなり伝わってきました。
    それを成り立たせているこの学校自体も、素晴らしいと思いました。
    ↓カヅラカタ歌劇団の本気の舞台は、こんなのです!!!

    (※注:ブログ内再生は禁止されています。リンクを開いてご覧ください。)
    本を読んでいたのではんぱないステージを作っているのは知っていましたが、まさに圧巻。
    東海高校・中学校の生徒さんだけでなく、保護者や地域の他の学校の方の協力もあって、非常に質の高いステージを実現できているそうです。生徒さんがイキイキと演じられるのも、そういった周りの応援があってこそなのでしょうね。
    印象的な記述がいくつかあったので、本書の読書メモ、残しておきたいと思います。


    鈴木隆祐『東海高校・中学校 カヅラカタ歌劇団の奇跡』

    読書メモ ロゴ
    (・太字部分は、本の引用。
      顔マークのあとの緑文字は僕の個人的コメントです。)
    (山本五十六の)​​​「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず」​が、東海の教育方針と重なる
    ​・まずは自分を生かす。​
    ​ そして、​​自身につながるすべてを生かす生き方をする​​。​​​

    (p67)
    びっくり​山本五十六の「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、ほめてやらねば、人は動かじ」は知っていましたが、その続きがあるとは、知りませんでした。
    続きがまた、名言ですね。
    なぜこちらはあまり広まっていないんだろう。
    僕が知らなかっただけかな?
    カヅラカタの生徒さんがカッコイイのは、こういったカッコイイ教育方針があるからこそなのでしょうね。

    カヅラカタ歌劇団の方針もカッコイイですが、学校全体の教育方針や学校全体の雰囲気も、またカッコイイです。↓↓
    ​​​・「同調圧力がいい意味で全くない。」
    ・「各々が個性を当然として受け入れている。」
    ・仏の教えが底辺に流れるからこそ、とても寛容な学び舎なのだ。​​

     (p238より。「」内は、卒業生の言葉。)
    スマイル​私立の仏教系の学校なので、そこのところがベースにあるようです。
      仏教には、僕もたしかに寛容な精神を感じています。
      公教育では特定の宗教に肩入れするようなことは御法度ですが、こういった雰囲気はぜひ真似したいと思いました。

    最後に、カヅラカタ歌劇団の顧問を長らくされていた久田教諭の言葉を引用させていただきます。↓↓

    ​​​・中高生時代に育むべきは、”良質な自己肯定感”だ
    ​ (p242)
    ・社会的に作られる自己否定感は社会的活動を通してしか回復し得ない
    ・社会的な活動を通じて、他者と共同してなにかを作りあげることが自己肯定感を育む
    ・それによって他者と共生する良質な自己肯定感は育まれる

     (p243)
    びっくり​久田教諭が、ご自身の体験から体得された原理。
      演劇活動と大舞台を作りあげるために周囲と協力しながら本気で活動することが、生徒たちの「良質な自己肯定感」を育んでいることは間違いないと思います。  


    宝塚っぽいユニークな歌劇団の本を買って読んだと思ったら、教育書として思いがけず刺激を受ける1冊ともなりました。
    東海高校や中学校は「共生」と書いて「ともいき」が学校のポリシーで、子どもたちはいろんな活動を通して自己実現をはかっているそうです。
    本で読んだだけですが、個性を伸ばす素晴らしい教育をされているように感じました。
    読書メモに書いたことは、忘れずに覚えておきたいです。
    そして、自分の教育実践にも、ぜひ生かしていきたいです!

  • 「表現」。そして「身体化」 ~工藤 勇一×鴻上尚史『学校ってなんだ! 日本の教育はなぜ息苦しいのか』その1

    昨日の日記​で「カヅラカタ歌劇団」のことを紹介しました。
    東海中学・高校で男子中高生が本気で取り組んでいる「部活」です。
    僕は、学習や運動以外で、子どもが思いっきり自己表現ができたり、自分の殻を破って成長できたりする事例を知れて、本当に良かったなあと思っています。
    中高生なので、子どもというほど、子どもじゃないですけどね。
    「学習や運動以外」と言いましたが、僕が注目しているのは、「音楽」と「演劇」です。
    学校というところは、学習や運動ができる子は、注目されやすいし、自己肯定感も上がりやすい。認められやすいんですね。
    でも、いろんな子がいていいし、いろんなことで認められ、自己肯定感を上げてもらいたいと思っています。
    とりわけ、「演劇」は人間関係のリハーサルにもなるし、疑似体験そのものなので、人生に好影響を与える効果は大きいと思っています。
    無口な子は無口な役をやればいいし、多動な子は多動な役をやればいい。
    役や表現というのは無数にあるから、「こうじゃないといけない」というのが一律に存在しない。
    みんな違って、みんないい。
    また、そうやって多様性が見られないと、演劇として、面白くない。
    違いを楽しみ合うには、演劇はほんとうにいいものだと思います。
    「学校」について真っ正面から対談した本に、工藤 勇一さんと鴻上尚史さんによる『学校ってなんだ!』という本があります。

    『学校ってなんだ! 日本の教育はなぜ息苦しいのか』
    (工藤 勇一×鴻上尚史、
    講談社現代新書、2021、税別900円)
    その中で、演劇の専門家である劇作家・演出家の鴻上さんは、こんなことを言われています。


    ・「このシーンで一番たいせつなことは何か?」を俳優とともに話して、「何を表現すれば良いのか」を、俳優が自分で気づくかたちで導くことができるのが、一番良い演出家だと思っています。
    (p110 鴻上尚史さんの言葉より)
    ・僕は、演劇的に言えば、身体化するとか、体ごと参加する方法によって、自分の頭で考える子どもを育てることができるんじゃないか、という期待を持っているんです。学びの身体化とでもいえばよいのかな。
    (p121 鴻上尚史さんの言葉より)


    鴻上さんがおっしゃることに、僕は大賛成で、これからの学校教育では、こういった要素をもっと増やしていけないかなあと思っています。
    キーワードは、「表現」。そして「身体化」です。
    それは何のために必要なのかというと、やはり、主体的な子どもたちの学びを引き出すためです。
    学びは教科書の中にあるわけじゃない。
    自分で気づき、「もっとこうしてみよう」と思うことにあります。
    次回からは学校教育改革の旗頭とも言える工藤勇一さんのお話も引用させていただきながら、『学校ってなんだ!』の本を読み返します。(この本はここ1年間で僕が読んだ教育関係書の中でもかなり勉強になった一冊です。)
    「学校」をどう捉え、どういう方向性に持っていくといいだろうということを、みなさんと一緒に、考えていきたいと思います。
    よければ次回もお読みください。
    それでは、また、次回!大笑い

  • 「考え方の違いなんて、当たり前」 ~工藤 勇一×鴻上尚史『学校ってなんだ! 日本の教育はなぜ息苦しいのか』その2

    工藤 勇一さんと鴻上尚史さんによる本
    ​『学校ってなんだ!​』
    の読書メモ、第2回です。

    『学校ってなんだ! 日本の教育はなぜ息苦しいのか』
    (工藤 勇一×鴻上尚史、講談社現代新書、2021、税別900円)

    ↓第1回は、​コチラ​。大笑い
    「表現」。そして「身体化」 ~工藤 勇一×鴻上尚史『学校ってなんだ! 日本の教育はなぜ息苦しいのか』その1
    前回は鴻上さんの言葉を引用したので、今日は工藤勇一先生の言葉を引用します。
    僕は、工藤勇一先生の代表的な著書『学校の「当たり前」をやめた。』の読書メモを1年前に書いています。
    よろしければそちらを一度読んでから戻ってきてもらえると、工藤勇一先生の実践や考え方をふまえて、読んでもらえると思います。
    工藤勇一『学校の「当たり前」をやめた。』
     (2021/7/6の日記)


    ​​​麹町中の数学の授業では教科書をほとんど使っていません。
     ほんとうはどの教科でも子どもたちの実態に合わせてそれぞれの先生が教材を工夫して進めるべきだと私は思います。
    画一的な教材を一方的に押しつけるシステムは疑問です。
    ・学習指導要領がなかった時代、教員は子どもたちに何を教えるべきか、どう教えるべきか、自分で考えていたものです。​​​

    (p74-75 工藤 勇一先生の言葉より)


    1年前のブログ記事にも書きましたが、工藤勇一先生の考え方は、特別支援教育における考え方に、似ているところがあります。
    つまり、​子どもたち一人一人に合わせて教材を考えて実践を重ねる​、ということです。
    通常学級では「これをやる、あれをやる」ということが決められすぎていて、それを次々と教えていかなければならない状況に陥っているのかもしれません。
    ほんとうは教科書だけを使わないといけないということもないし、指導者側にも自由度や裁量は残されているのですが、教師の側も次第に教科書を教えることだけで精いっぱいになってきているのかもしれません。
    どちらにしろ、子どもたちにとって、決まり切ったことをやっていると思われる授業になりがちでは、という気がします。
    工藤先生はこの対談書で、これまでの日本の教育を振り返って「以前はこういうことがあった」と話されているところが、何カ所かあります。
    今の時代の教育しか見ていなかった僕は、非常に勉強になりました。
    また、外国の教育と日本の教育を比べて発言されているところも、ありました。


    ​​​偏差値なんてことを気にするのは世界の中でも日本だけ
    ・知らないはずですよ、海外の人は偏差値なんて。
    ・全員を当事者に変えていくための仕組みをつくること
    (p116 工藤 勇一先生の言葉より)


    偏差値のことは具体的で分かりやすい例だったので、特に印象に残りました。
    やはり、日本は過度な競争社会なのでしょうか。
    「勝ち組」「負け組」が生まれるような社会は、生きづらさを感じてしまう人たちも一定数生み出してしまうので、そこはなんとか変えていけないか、と思っています。
    さて、前回僕は工藤勇一先生のことを、「学校教育改革の旗頭」と紹介しました。
    実際、『学校の「当たり前」をやめた。』で書かれているような、「宿題なし」「クラス担任なし」「中間テスト・期末テスト廃止」というような大きな変化を学校全体で取り入れて実現するのは、かんたんなことではなかったと思います。
    そのような組織改革はいかにしてなされたのでしょうか。


    最初はひとりですよ。私ひとり。
    ・私は異論が出るのは普通だろうとしか思っていないので、それを逆風とも思わない。

    (p108 工藤 勇一先生の言葉より)


    後半のページにも、「逆風」の話が出てきますので、そちらも引用します。


    ​​現実を受けとめることができないから、異なる意見がぶつけられることを「逆風」とか言ってしまうんですよ。別に逆風でも何でもない。
     考え方の違いなんて、当たり前じゃないですか。

    ​​

    (p176 工藤 勇一先生の言葉より)


    僕はけっこう自分の意見が受け入れられないと、へこむタイプです。
    でも、考え方が違うのは当たり前なので、ほんとうはへこむようなことじゃないんですよね。
    工藤勇一先生は、自分の考えをしっかり言葉で伝えることを大切にされていて、違う意見の人と言葉で話し合うことをすごく丁寧にされてこられた方だと思います。
    そういう生き方を身に付けていかないと、へこんでばかりでは、成長がないですね。
    へこんでないで、話をしに行こうと思います。
    この本の読書メモは、次回も続けます。
    それでは、また、次回!大笑い

  • 「学ぶのは子どもだし。『わからない』ことは重要」 ~工藤勇一×鴻上尚史『学校ってなんだ! 日本の教育はなぜ息苦しいのか』その3

    ​​​工藤 勇一さんと鴻上尚史さんによる本
    ​『学校ってなんだ!​』
    の読書メモ、第3回です。

    『学校ってなんだ! 日本の教育はなぜ息苦しいのか』
    (工藤 勇一×鴻上尚史、講談社現代新書、2021、税別900円)

    ↓第1回・第2回は、​コチラ​。大笑い
    「表現」。そして「身体化」 ~工藤 勇一×鴻上尚史『学校ってなんだ! 日本の教育はなぜ息苦しいのか』その1
    「考え方の違いなんて、当たり前」 ~工藤 勇一×鴻上尚史『学校ってなんだ! 日本の教育はなぜ息苦しいのか』その2
    昨日の読書メモを書いてから、寝るときに自分なりに昨日の内容について考えました。
    僕は最後に「工藤勇一先生は、自分の考えをしっかり言葉で伝えることを大切にされていて、違う意見の人と言葉で話し合うことをすごく丁寧にされてこられた方」と書いたじゃないですか。
    自分自身はそれができたかな、できるかな、ということを、ずっと考えていました。
    工藤勇一先生は中学校の先生でしたから、職員同士で話し合うことだけでなく、非行生徒と話し合うことも、すごくされてきた方です。
    工藤先生は、非行生徒と信頼関係を築いていった過程を、こんなふうに言われています。


    ・タバコ吸っているところに自分から足を運んで、タバコをやめさせてから、ずっと話したりする。
     雑談です。
     でも、そこからだんだんと信頼も生まれてくる。

    (p187 工藤勇一先生の言葉より)


    こういうところを読むと、されていること自体は、とても簡単なことのようにも、思えます。
    やっぱり、何を大切に思っているかという、信念=考え方しだいなのでしょうか。
    「大切なことは何なのか?」
    を本書を読み返しながら、もう少し、考えていきたいと思います。


    ​​工藤:
     ほんとうの学びって、教えてもらうことじゃないですよね。
     ​学びとは、自ら学ぶことです。​その姿勢です。
     だから「わかる授業」を実施しようと言っていることじたい、日本の教育の最大の問題点なのだと思います。
    鴻上:
     では、「わかる授業」に代わる言葉って何ですか?
    工藤:
     「学ぶ授業」
    工藤:
    ​ だって、学ぶのは子どもだし。
     「わからない」ことは重要なんですよ。


    (p118より)


    本書での学びの、まさに要諦だったかなあと思うのが、上のところです。
    すごく、共感します。
    一方で、やっぱり僕も、「わかる授業」をめざしちゃっているなあ、と思います。
    「わからない」ことは重要なんですが、今の教室の中で「わからない」が続くと、自尊感情が下がる、ということが頻発しています。
    大事なのは、「わかる」ことではない。
    「わからない」ことの価値を、教室のみんなで感じることだ、と思います。
    そのような考え方をとると、知的障害の子どもたちが通常学級の場の中で一緒に学ぶインクルーシブ教育を実現できる方向性も、見えてくると思います。
    「わからない」に価値があるのですから、学習の理解がなかなか進まないということは、それだけ学んでいるということなのです。
    先日オンラインで参加させていただいた障害のある子の高校や大学への進学について考える会でも、参加者の皆さんは子どもたちの「まだまだ学校で学びたい」という気持ちをとても大事に考えておられる方々ばかりでした。
    (▼​​過去記事参照​​)
    「高校は義務教育じゃないんだから、勉強ができない子は行かなくていいし、入試があるんだから、行けないんだよ」と考えるのか、「学校というのは学ぶところなんだから、なかなかわからないんだという子こそどんどん行くべきで、高校も、大学も、学びたい子はどんどん受け入れて、みんなで学んでいけばいいんだ」と考えるのか。
    そういった考え方の違いで、学校という場所の意味付けは、180度変わってきます。
    「学ぶ」ということをどう捉えるのか。
    「学校」ということをどう捉えるのか。
    そういうことを考えておくって、ほんとうに大事です。
    ちなみに、今回引用したおふたりの議論の少し後に、​第1回読書メモ​で僕が引用した鴻上さんの「体ごと参加する」というお話が出てきます。
    「学ぶ」にはいろいろな方法があるはずなので、当然、教科書と黒板とノートと鉛筆、という今までの日本の一般的な学び方以外のスタイルも、あるはず。
    そういうことを考えていくことで、「学べる」子どもたちは、増えていくんじゃないかな、と思います。
    さて、教育改革について考えるうえで、学級定数規模の話は避けて通れません。
    それについてのおふたりのお話も、ご紹介します。


    工藤:
     少人数にして、自律型の子どもたちを育てるというのではなく、少人数にして学力を上げることがセットになっていることが問題です。
    鴻上:
     30人以下だったら失敗してもいいという雰囲気をつくりやすいんです。
    (略)
     20人くらいの小規模になると、もっと楽で、ほんとうに失敗しやすくなる。
    (p125より)


    鴻上さんはその後の言葉の中で、演出家が自分のやりたいことを押し付ける目的で少人数でやるのだったら、意味がない、ということも言われています。
    学力を上げる、というのが押し付けになっていたら、それは、自律型の子どもたちは育たないですよね。
    子どもたち自身が学力を上げようと自分で思って学ぶんだったら、意味はあるんです。
    でも、上から押しつけてやらせるんだったら、子どもたちにとって、生涯を学んでいく力になっていかない。学びは先生のためのものじゃなくて、自分のためのものですからね。当たり前ですけど。
    演劇なんて、特に、自分の個性を発揮させてなんぼ、ですから、そういった個性を引き出せるかどうかは、指導者のかかわり方にかかっている、と思います。
    「少人数のほうが失敗してもいい雰囲気をつくりやすい」というのは、僕は小規模校から大規模校までいろんな教室を見てきましたけど、やっぱりそれはすごくあると思います。
    人数が多くなると、より管理する方向に行きやすくなる。
    「みんな同じようにしてもらわないと困る」みたいなことが、大人数のほうが生じやすい。
    だからこそ、日本の教室も、諸外国並みの少人数規模をかなえてほしい。
    僕は、いろんな教室を見てきて、「16人がベスト」と、個人的に思っています。
    ペアやグループを作りやすい数で、いろんな組み合わせで学び合うことがしやすいですから。
    長くなりました。
    続きはまた次回!
    たぶん、次回が本書の読書メモ、最終回です。
    よかったら、読みに来てくださいね。大笑い
    ​​​​

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