カテゴリー: 共に生き、共に育つ

  • 「ICT×音楽×インクルーシブ教育」のお話を聞きました!

    年始のあいさつ​にICT×音楽×インクルーシブ教育のコラボレーションをばっちり決めたい」という本年の抱負を書きました。

    そうすると、思いかげなく同じテーマで実践をされている方のお話を聞くことができました。
    同じ志をもった方とお出会いすることができて、うれしかったです。スマイル
    音楽教育の研修会の講師として、新年早々、大阪から僕の勤務市まで、わざわざ来ていただきました。
    最初に「障害とは?」というお話をされ、「バリアフルカフェ」の映像を見せていただきました。
    障害の社会モデルの話を大変分かりやすく伝えていただき、感激しました。

    上の映像とは違うのですが、バリアフルカフェについては、僕も合理的配慮をテーマにしたNHKの番組の中ですでに視聴していました。
    (→過去記事▼NHK「合理的配慮」特集が記事に! 『「合理的配慮」がよく分かる 考え方と具体例​』など
    ▼​「合理的配慮」後編① ~てれび戦士が合理的配慮の大切さを体験取材~
     (NHK for School)
    研修会の冒頭でこういった映像で「社会モデル」の話を共有するのっていいな、と思いました。ぽっ
    音楽教育の研修会だったので、その後は音楽の授業に関する具体的な演習に入りました。
    演習その1は、「コップで合奏しよう」
    コップひとつでいろんなリズムが演奏できることに驚きました。びっくり
    その演奏方法がけっこう難しくて、前半はなんとかなったのですが、後半は覚えられなくて大変でした。
    講師の先生は1人1台端末で見られるお手本動画をいくつか紹介してくださいました。
    一番ゆっくりのお手本動画で、見よう見まねでやってみましたが、最後が混乱してきて困りました。
    最後から順番に少しずつスモールステップで習得していくやり方が僕には合っていそうだと思いました。
    そうすると僕の場合、動画よりもスライドで1コマ1コマ静止画で確認していくやり方のほうがあっていたかもしれません。
    こういう研修は、自分が子ども役をやってみることで、気づくことがたくさんあります。
    こういう機会を与えてくださった講師の先生に感謝です!
    最後に全員で円になって合奏した時には、僕はてんで習得できていなくて、最後の最後は半拍ずれてコップを置く音を立てていました。しょんぼり
    でも、半拍ずれても「曲」っぽくはなっているので、「それはそれでおもしろいなあ」とも思いました。大笑い
    僕が「音楽」に「インクルーシブ教育」の要素を感じるのは、レールから外れる音が出ていても「それはそれでおもしろい」と許容される時間がつくりやすいからです。
    それは、「リズム合奏」のときに、特に顕著に感じられます。
    リズムの場合、いろんなリズムが絡み合うことで、かえって面白さが増すことがあるのです。
    全員が全く同じリズムをやっているのではなく、なんだかちょっとずれている子がいるというのが、かえってそのほうがおもしろい。
    その場で、そのメンバーで作っている音楽、という気がする。
    そういった音楽の寛容性が、インクルーシブな時間につながるのではないかという気がしています。
    演習その2は「ソングメーカー」と「カトカトーン」による音楽作りでした。
    これについては僕もすでに同じ実践をしていたので、ここでは詳細は省きます。
    僕の過去記事をご覧下さい。↓大笑い
    ♪リアルな音で音楽制作体験!音楽教科書会社のWebアプリ「カトカトーン」
    アプリの説明については僕の上の記事を見ていただくとして、
    講師の先生から最後に紹介していただいた「生徒作品」がステキすぎてびっくりしました。びっくり
    子どもたちの可能性は無限大ですね。
    特に、「発語のないお子さんの作品」として紹介された作品がステキすぎてしびれました。
    実際に楽器の演奏ができなくても、ICTの力を借りてすばらしい音楽を作り出すことができます。
    ICTでいろいろな子どもたちの表現を引き出せるようになることがよく分かりました。ウィンク
    ★2024/1/15追記★
    上の演習その2で、当初「メロディメーカー」と書いていましたが、「ソングメーカー」の間違いでした。
    上のリンク先で僕は「メロディメーカー」のことを書いていますが、研修では「ソングメーカー」を使っていました。
    僕がこの2つの違いを分かっておらず、同じものだと勝手に勘違いしていました。
    すみませんでした!
    「ソングメーカー」はメロディだけでなく、リズム伴奏をつけることができます!
    ▼ソングメーカー(Chrome Music Lab)
     ​https://musiclab.chromeexperiments.com/Song-Maker
    演習その3は、ハンドベルによる合奏でした。
    音ゲーのように演奏できるおもしろさにハマりました!大笑い
    講師の先生はScratch上で五線譜を描くと、音ゲーのように「落ちてくる音符」に変換されるプログラムを作られていました。
    僕も自分の学校の子どもたちと、やってみたいなーと思いました。
    縦型と円形があるのも、おもしろいです。ウィンク
    ▼動く楽譜を作ってみよう!【縦型】
     (Scratch、iwama94様)
    ▼合奏支援ツール「円形アニメーション楽譜」
     (Scratch、iwama94様)

    とても学びになる研修会でした。
    講師のI先生、ありがとうございました!大笑い

    【音楽の練習】小学生向けYouTube動画の具体的な活用のしかた!
    「障害をもつ人も、もたない人も・・・」~『クラス合唱名曲秘話 楽譜に書ききれなかったこと』より
    【動く楽譜】「旅立ちの日に」(3部合唱)を公開♪

  • 「障害者に『主体』があるとは思われていなかった」 ~荒井裕樹『どうして、もっと怒らないの?』その1

    昨日のブログ記事​で「ゆるすということ」について書いたのですが、今日は、逆のことを書きます。
    ゆるせないこと」というのが、強烈な動機付けとなって、行動につながるということがあります。

    世の中はけっして理想的なものではなく、理不尽なことがあるので、「ゆるせない」と怒って行動していくことも、一方では必要なことではないかと思っています。
    「やる気が出ないなあ」と思ってだらだらしている人の中には、「ゆるせない」という気持ちが足りないのかもしれません。
    僕は「インクルーシブ教育」を自分の実践の柱の1つとして追求していこうとしています。
    ただ、重要なのは、「なんのために」それをするかです。
    それは、明らかに、厳然とした差別が、そこにあるからです。
    障害当事者として当事者運動の中で行動しつづけた方がいらっしゃいます。
    「インクルーシブ教育」を追求していくにあたり、当事者運動の先輩に学ぶこと、差別の現実を直視することは、避けては通れません。
    今回から何回かにわたって、以下の本をとりあげます。

    『どうして、もっと怒らないの? 生きづらい「いま」を生き延びる術は障害者運動が教えてくれる』
    (荒井裕樹、現代書館、2019、税別1700円)

    本書は、荒井裕樹さんが、いろんな方と対談された、対談集です。
    (​以前に、尾上さんと対談されたところを少しだけブログで紹介しました。​)
    本書の第1話「運動はすぐそばにある」では、九龍ジョーさんと対談されています。
    そのなかで、障害当事者(横田弘さん)が障害者運動をするなかで実際にあった、非常に考えさせられるエピソードが出てきます。


    九龍:「責任者は?」と警察が聞いて、横田さんが「私です」と答える。
       それでもまだ「責任者は誰?」って警察が聞き返す。
       つまり、パフォーマンスをした横田さん本人を責任者と認めないんですよね。

    荒井:​障害者に「主体」があるとは思われていなかったんですよ。​
       ​だからこそ、青い芝の会の「行動綱領」には「われらは、強烈な自己主張を行なう」と書いてあるんですよね。​
    (p24より)


    「障害者に『主体』があるとは思われていなかった」ということが、まさに「差別」の状況を端的に示しています。
    このエピソードは1972年に撮影されたドキュメンタリー映画「さようならCP」の中の場面のことを指していますが、僕たちの今の社会のことを顧みた時に、同じことが起こっていないと言えるでしょうか。

    DVD『さようならCP』 [ 原一男 ]
    僕は学校に勤めているので、特に、学校教育の中で、あまりにも「子ども」を客体としてとらえすぎているのではないかということも思います。
    そうすると、もしかすると「障害のある子ども」は、二重の差別を受けているのかもしれません。
    社会は偽善に満ちていて、僕自身も、多数派の論理に組み込まれ、無自覚になっています。
    でも、それに気づかせてくれるのは、当事者の怒りであり、行動です。
    「ゆるせないこと」が厳然とあることに、怒りの行動で気づかせてくれていることに、僕たちは気づかなければなりません。
    そして、自分たちも、怒っていいんだということに、気づかなければならないと思います。
    今回から何回かに分けて、本書の中の記述を引用させていただくことで、皆さんと共にいろいろなことを考えていきたいと思います。
    著者の荒井裕樹さんは、本書の前に『差別されてる自覚はあるか』を出されています。
    こちらも、青い芝の会の横田弘さんについて書かれた本です。

    『差別されてる自覚はあるか 横田弘と青い芝の会「行動綱領」』
    (荒井裕樹、現代書館、2017、2420円)
    2冊とも、当事者運動からインクルーシブ教育を考える上で、大変意義深い本です。
    多くの皆様に読んでいただきたいと思います。

    NHK「合理的配慮」特集が記事に! 『「合理的配慮」がよく分かる 考え方と具体例​』など
     (2023/08/30の日記)
    吉間慎一郎「社会変革のジレンマ ―伴走者と当事者の相互変容からコミュニティの相互変容へ―」
     (2023/12/24の日記)

  • 「本当の社会参加とは」 ~荒井裕樹『どうして、もっと怒らないの?』その2

    昨日​の続きです。
    以下の本の読書メモを続けていきます。

    『どうして、もっと怒らないの? 生きづらい「いま」を生き延びる術は障害者運動が教えてくれる』
    (荒井裕樹、現代書館、2019、税別1700円)

    第1話だけでも、今後のために覚えておきたいことがとにかくたくさん出てきます。
    とにかくどんどん書いていきます。
    ただ、僕がこのブログでやっていくのはあくまでも「引用」であり、部分的な「抜粋」でしかありません。
    言葉はもちろん、文脈の中で理解されてしかるべきものです。
    僕の部分的な引用で、興味を持たれたり、心に引っかかりをもたれたりした方は、ぜひ本書を手に取っていただき、通して読んでいただきたいと思います。
    以下は、第1話の対談の中での、荒井さんの言葉からです。


    ・「愛らしく健気な障害者」としてふるまえば、社会は応援してくれたり、優しくしてくれるかもしれません。
     でも、「気分がいいときだけ仲間に入れてもらえる」というのは、本当の社会参加とは言えないんじゃないかな。
    (p26)


    本書は学校教育ではなく障害者運動のことをテーマにした本ですが、僕は僕のスタンスとして、学校教育に引き寄せて、本書で書かれていることを考えたいと思っています。
    上で書かれていることは、学校のなかで、非常によく見られる場面を思い起こさせました。
    たとえば、「友だちがいない子」がいるとする。
    「お世話される存在」とみなされている子がいるとする。
    遠足で、お弁当を食べるときに、一緒に食べる子がいないとする。
    そうすると、周りの子が、しかたないから、「仲間に入れてあげる」ということを言う。
    それを、先生も周りも、「親切だ」「いいことだ」と思っている現状がある。
    僕は、本書の中で後で登場される尾上さんと昨年つながりができました。
    いろいろなことを教えていただきましたが、尾上さんは「思いやり差別」という言葉を使われていました。
    まさに、「思いやり差別」です。
    多数派が「いいことだ」と思って思いやりを発揮しているのに、それに従わないとは何事だ、という無意識の圧力がある。
    あなたは、わたしは、それに対してどうしていきますか?ということが、問われていると思います。


    ・衝突の機会さえ奪ってしまうのは、「やさしさ」の姿を装った隔離です
    (p28)


    ひるがえって僕自身のことを考えると、僕は、「やさしさ」が大好きです。
    僕はとても弱い人間なので、やさしくしてもらえければ、今まで生きてこれなかったと思います。
    遠足のお弁当のような場面では、僕は、「仲間に入れてもらっていた派」です。
    これまで受けてきた周囲の人のやさしさには、感謝しかありません。
    「でも」「だからこそ」と思います。
    でも、だからこそ、「やさしさ」が押しつけになってしまうことに、敏感にならなければいけない、と思います。
    本書のなかの対談を通して、僕は、そんなことを思いました。
    こういった話を、次回以降も、続けていきます。
    よかったら、明日もまた、見に来てください。

  • 「健全者がつくった空気」 ~荒井裕樹『どうして、もっと怒らないの?』その3

    以下の本の読書メモを続けています。

    『どうして、もっと怒らないの? 生きづらい「いま」を生き延びる術は障害者運動が教えてくれる』
    (荒井裕樹、現代書館、2019、税別1700円)

    連載ブログ記事です。
    第1回→ 「障害者に『主体』があるとは思われていなかった」
    第2回→ 「本当の社会参加とは」
    本書の第1話の中だけでも、今後のために覚えておきたいことがとにかくたくさん出てきます。
    とにかくどんどん書いていきます。
    第2回に引き続き、第1話の対談の中での、荒井さんの言葉を引用します。


    ・青い芝の会の人たちは、なにかをする前から「危ない」という理由で、やりたいことを禁じられてきた人たちなんです
     「障害者のためを思って」というやさしさを装った禁止は、障害者を1人の「主体」として見てないということではないか。

    (p31)
    ・自分にとって「危ない/危なくない」「できる/できない」の境目はどこかを判断できるようになることが大切なんです。
     そうした判断さえさせてもらえない状態を、横田さんは「障害者は自己を奪われている」と表現されていました。
    (p32)
    ・横田さんたちには、そうやって他人に勝手に先回りをされることで行動を制限されてきた、という歴史があるわけです。
    (p32)


    引用が長くならないように部分的な引用にとどめていますが、ここのところはぜひ全体をつなげて続けて読んでもらいたいところです。
    ぜひ原文全体を参照されますようお願いします。
    第1回のブログ記事で、僕は「​『障害のある子ども』は、二重の差別を受けているのかもしれない​」と書きました。
    子どもだから危ないからさせてもらえない、とか、意見を聞いてもらえないということが頻繁にある状況もふまえると、障害者だけでなく、今の日本全体で当たり前に行なわれている差別に行き着きます。
    おそらく多数派の人は、「そんなの当たり前やん」と思っているのではないかと思います。しょんぼり
    でも、ちょっと立ち止まって、制限される立場になって感じてみることが必要なのではないかと思います。
    僕がよく話をするのは、以下の2つのエピソードです。
    1つめは、自分の子どもの話です。
    散髪屋に行ったら、「どんな髪型にしますか」というのを、子ども本人に聞かずに、親の僕に聞いてくるんです。
    僕は、そのたびに、「子ども本人が決めるから、本人に聞いてください」と言い続けてきました。大笑い
    2つめは、過去に学校で担任した子の話です。
    2年生のAさんは、自分で立って歩けないので、バギーに乗っていて、常に介助の先生がそばについていました。
    介助の先生がバギーを押して移動していると、子どもたちが寄ってきて、聞きました。
    「今からどこいくん~?」
    それを、Aさん本人ではなく、バギーを後ろから押している、介助の先生に聞くわけです。
    それを見ていた僕は、子どもたちに言いました。
    「Aちゃん本人に聞いてね」ウィンク
    Aさん本人にあらためて聞き直した子どもたち。
    とたんに、Aさんの顔がぱっと明るくなりました。
    Aさんは自由に話をすることができませんが、一所懸命顔の筋肉を動かして、どこに行こうとしているのか、子どもたちに伝えようとしていました。
    子どもたちには、バギーを押されているAさんは客体でしかなく、押している介助の先生こそが主体に見えたのだと思います。
    でも、移動介助は、あくまでも「介助」です。
    移動は本人の主体によってなされるものであり、「介助」はあくまでも本人の主体性に基づくものです。
    あたかも本人に意志がないかのように、本人を飛び越えて、介助者と周囲で話をされたとしたら、それを聞いているAさんはどう思うだろうか、と思います。しょんぼり
    あまりにも当たり前になりすぎている現実を、改めて問い返すことをしていきたいのです。
    「共に生きる」ために。
    今回の記事の最後に、荒井さんと九龍さんのそれぞれの言葉を引用します。


    ・荒井:
     青い芝の会の人たちは空気を読まなかったですね
     つまり、「健全者がつくった空気は、障害者を排除するためのものだから読む必要はない」と考えた。
    ・九龍:
     この「健全者」という言葉も、障害者に対抗して、マイノリティの側からレッテルを貼り返すための言葉なんですよね。
    (p39)


    当事者運動から出てきた当事者の言葉というのは大変重いです。
    同時に、マイノリティの側が、主体性を取り戻す、勇気をもらえる言葉であることも多いです。
    上に引用した「レッテルを貼り返す」といったことは、まさに当事者の側からしか出てこない言葉であり、発想だと思います。
    僕が子どもの頃、「ビックリマンシール」というのが流行りました。
    そのキャッチフレーズが、「はられたら、はりかえせ」でした。
    この言葉に、わずか5文字を付け加えて、「レッテルをはられたら、はりかえせ」とする。
    すると、それだけで、痛烈で痛快な逆転現象が起きます。大笑い
    いつも「される側」でしかなかった側が主体に回ってやり返す姿は、痛快です。
    でも、これは、対等な関係であるならば、当然起こってしかるべきことです。
    あんのんとしているマジョリティは、たまにはそういう立場を経験するべきではないか、と思います。
    そうでなければ、気づかない。
    自分がされてみて初めて気づく。
    悲しいかな、そういった現実もあるように思います。しょんぼり
    荒井さんの言葉にあるように、「障害者を排除する空気」が、今の日本にはたしかにあります。
    外国の話を聞くたびに、日本はそういった空気が諸外国よりも強くあることを実感せずにはおれません。
    「インクルーシブ社会」や「共生社会」をほんとうに実現していくなら、その「空気」を変えなければならない。
    それに気づかせてくれるのが、当事者の言葉です。
    当事者側からの発信です。
    こういった本でそれを知らせてくれることを、ほんとうにありがたいことだと感じます。
    次回以降も、まだまだ本書を読んで感じた話を、続けていきます。
    よかったら、明日もまた、見に来てください。
    (平日は、なるべく20時に更新するようにしています。)

  • 「生きるに遠慮がいるものか」 ~荒井裕樹『どうして、もっと怒らないの?』その4

    以下の本の読書メモを続けています。スマイル

    『どうして、もっと怒らないの? 生きづらい「いま」を生き延びる術は障害者運動が教えてくれる』
    (荒井裕樹、現代書館、2019、税別1700円)

    連続記事です。過去記事はこちら↓
    第1回→ 「障害者に『主体』があるとは思われていなかった」
    第2回→ 「本当の社会参加とは」
    第3回→ 「健全者がつくった空気」
    筆者の荒井さんは、
    「日本の障害者運動って、名言をたくさん残しているんですよ。」
    と書かれています。
    (p79)
    今まで紹介してきた内容をふまえて、ここでぜひ引用しておきたい「名言」があります。
    それを紹介せずにはおれないので、ババンと!引用させていただきます。


    ​​​・「生きるに遠慮がいるものか」​​​
    (p80、花田春兆さんの言葉)


    これは、すごい。
    短い言葉の中に、今までの話がすべて凝縮されているように感じました。
    結局、日本の社会が「遠慮」を強いているんです。
    そんな社会はおかしい、という声を、あげなくちゃいけない。
    「遠慮しながら生きていけ」と遠回しに言ってくる社会を、社会自体を変えていかなければならない。
    そのためには、遠慮しながら生きていくなんてことは、はなから、しなくていいんだ。
    僕は、「生きる」ということが、ただそれだけで尊いものだということを、改めて教えてもらった気がしました。
    それにつなげて、今度は川口有美子さんとの対談のところから、川口さんの言葉を引用させていただきます。


    ・私ね、エゴってすごい大事だと思っているのね。
    (p92、川口有美子さんの言葉)


    キターーーーって感じです。
    これぞ、「全肯定」。
    こう言ってもらえると、安心できる自分がいます。大笑い
    「エゴ」と「遠慮」って、表裏一体なんですよね。
    エゴイズム丸出しだと、もっと周りのことを考えろ、と言われる。
    そこを、「エゴって大事」と言われると、救われる。
    むしろ、そう言っていかなくちゃいけないんじゃないか、と思います。
    そうでないと、救われない場合もあるのではないか。
    日本は文化的に自己主張をしないことを美徳とするところがあって、学校でも「自分勝手」はすごく戒められるし、社会の中でも「出る釘は打たれる」というところがあります。
    ただ、外国ではむしろ逆に、「自己主張をしないといけない」と教育されているところを感じるので、そのあたりは日本と外国を対照的に見ながら、自分自身、日本の社会を考える上で、もっと考察を重ねていきたいなあと感じているところです。
    とりあえず今のところは、僕は、「エゴ」とか「自分」というものは、少なくとも今の日本の社会では、もっと出していっていいのではないか、それが当たり前ではないか、ということは思っています。
    それが、生きにくい社会を変えていくことにつながるのではないか、と思っています。ぽっ
    今回引用したところは、第3話「『いのち』を支える言葉たち」のところです。
    荒井さんと川口さんの対談の回です。
    このお2方の対談のシーンでは、詳しくは引用しませんが、かなりショッキングな実際にあったことの話も次々と出てきて、僕はめまいがしそうでした。
    社会というものの残酷さに、絶望しそうになりました。
    社会が、いのちに対して、次々と要求をしてきている。
    そのいのちに意味があるのかとか、役に立っているのかとか、冷たい刃で突きつけてくる。
    そういうときに、はねかえせる力というのは、「生きるに遠慮がいるものか」とか、「エゴってすごい大事」とかの、強い言葉です。
    僕たちは、「なんのために」生きているのか。
    それを社会から問われるのは間違っている。
    個人の命よりも社会が優先されている社会ならば、僕たちはむしろ、こう問い返さなければならない。
    「なんのための、社会なのか」と。怒ってる
    前回僕が書いた言葉を、ここで、もう一度書きます。
    「インクルーシブ社会」や「共生社会」をほんとうに実現していくなら、社会の「空気」を変えなければならない。
    それに気づかせてくれるのが、当事者の言葉です。
    当事者側からの発信です。
    こういった本でそれを知らせてくれることを、ほんとうにありがたいことだと感じます。
    次回は、第5話「『ポスト相模原事件』を生きる」を読み返しながら、覚えておきたいことのメモをさらに綴っていきたいと思います。
    もう少し、本書の読書メモを続けます。
    よかったら、また明日も、見に来てください。ウィンク

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