「本当の社会参加とは」 ~荒井裕樹『どうして、もっと怒らないの?』その2

昨日​の続きです。
以下の本の読書メモを続けていきます。

『どうして、もっと怒らないの? 生きづらい「いま」を生き延びる術は障害者運動が教えてくれる』
(荒井裕樹、現代書館、2019、税別1700円)

第1話だけでも、今後のために覚えておきたいことがとにかくたくさん出てきます。
とにかくどんどん書いていきます。
ただ、僕がこのブログでやっていくのはあくまでも「引用」であり、部分的な「抜粋」でしかありません。
言葉はもちろん、文脈の中で理解されてしかるべきものです。
僕の部分的な引用で、興味を持たれたり、心に引っかかりをもたれたりした方は、ぜひ本書を手に取っていただき、通して読んでいただきたいと思います。
以下は、第1話の対談の中での、荒井さんの言葉からです。


・「愛らしく健気な障害者」としてふるまえば、社会は応援してくれたり、優しくしてくれるかもしれません。
 でも、「気分がいいときだけ仲間に入れてもらえる」というのは、本当の社会参加とは言えないんじゃないかな。
(p26)


本書は学校教育ではなく障害者運動のことをテーマにした本ですが、僕は僕のスタンスとして、学校教育に引き寄せて、本書で書かれていることを考えたいと思っています。
上で書かれていることは、学校のなかで、非常によく見られる場面を思い起こさせました。
たとえば、「友だちがいない子」がいるとする。
「お世話される存在」とみなされている子がいるとする。
遠足で、お弁当を食べるときに、一緒に食べる子がいないとする。
そうすると、周りの子が、しかたないから、「仲間に入れてあげる」ということを言う。
それを、先生も周りも、「親切だ」「いいことだ」と思っている現状がある。
僕は、本書の中で後で登場される尾上さんと昨年つながりができました。
いろいろなことを教えていただきましたが、尾上さんは「思いやり差別」という言葉を使われていました。
まさに、「思いやり差別」です。
多数派が「いいことだ」と思って思いやりを発揮しているのに、それに従わないとは何事だ、という無意識の圧力がある。
あなたは、わたしは、それに対してどうしていきますか?ということが、問われていると思います。


・衝突の機会さえ奪ってしまうのは、「やさしさ」の姿を装った隔離です
(p28)


ひるがえって僕自身のことを考えると、僕は、「やさしさ」が大好きです。
僕はとても弱い人間なので、やさしくしてもらえければ、今まで生きてこれなかったと思います。
遠足のお弁当のような場面では、僕は、「仲間に入れてもらっていた派」です。
これまで受けてきた周囲の人のやさしさには、感謝しかありません。
「でも」「だからこそ」と思います。
でも、だからこそ、「やさしさ」が押しつけになってしまうことに、敏感にならなければいけない、と思います。
本書のなかの対談を通して、僕は、そんなことを思いました。
こういった話を、次回以降も、続けていきます。
よかったら、明日もまた、見に来てください。

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