「提案されたものを消費されることに耐えられなくなった」~石川晋『エピソードで語る教師力の極意』その2

​​​昨日のブログ記事​で、石川晋さんの『エピソードで語る教師力の極意』の中から、「登山」のエピソードを紹介しました。
 「完璧なマニュアルを示してその通りにしなさいというのが一番危険だ」というお話でした。
その話が載っている『エピソードで語る教師力の極意』という本自体、マニュアルではない、事例やエピソードで語られる教育書であります。
#シリーズ化されています。
#他の著名な教育実践家の方々も書かれています。

『エピソードで語る教師力の極意 石川晋』
(石川晋
、明治図書、2013、税別1760円)
この本の前に4回にわたって読書メモを書いていた
拝野佳生『関係支援を核とした学級づくり 「特別でない」特別支援教育をめざして』
もまた、事例やエピソードで語られる本でした。
#『エピソードで語る教師力の極意』のシリーズであっても違和感ない。
「教育」における「マニュアル」からの脱却について、彼ら先輩教員から示唆されていることの意味は大きい、と感じます。
もちろん、子どもたちへの「教育」だけでなく、会社の新人教育などで考えても、「マニュアル」を整備した方が、圧倒的に、速いです。
「コスパ」を考えるなら、そのほうが、断然コスパがいい。
でも、状況が変わったら、その通りにはいかない。
その通りにいかないと、思考停止してしまう子どもたち、新人社員が、圧倒的に生まれているのです。
これは、マニュアル教育の弊害です。
状況は、変わるのが、当たり前なのです。
現実では、いつも想定外のことが起こります。
マニュアル至上主義者はその想定外に対応できない。
だからこそ、マニュアルに頼らず、今ここに起きているハプニングから学ぶことこそをやっていきたい。
かく言う僕も、いろいろな方のお話を聞いて、やっとここ10年でそこに思い至ったところです。ぽっ
学校は、そのための、かっこうの場なのです。
想定外を楽しめるようになりたいものです。
「マニュアル」に似たものとして、「ハウ・ツー」という言葉があります。
僕は「マニュアル」も「ハウ・ツー」も否定するものではありません。
むしろ大好きです。
すぐそれに頼ろうとします。
コスパ大好き人間です。
手軽にラクをしたいです。
若い頃は、「ハウ・ツー」を求めて研修会に積極的に参加していました。
なにか役立つネタがほしかったのです。
教師は多忙な職業でもあり、授業はライブであるため、ライブで使えるネタを必死で求める人が多いのは、経験的に言って、よく分かります。
でも、一方で・・・ということも、考えておきたい。
石川晋さんは研修講師として多くの現場教師に話をされてきましたが、あるときから「提案されたものを消費されることに耐えられなくなった」として、研修講師を引き受けることをあまりされなくなったそうです。(p133)
このことについて、『エピソードで語る教師力の極意』では、こう書かれています。


・教室で使える「お役立ちセット」のように、
 もらって帰って何も思考しようとせずにそのまま使う(消費する)人たちが
 明らかに出てきました。

・教育活動って、そんな簡単なものでもいい加減なものでもない。
 そんな「消費されていく感覚」に耐えられなくなってきました。
・研究会や研修会に参加している先生方の教室の実践が、あまり変わっていないのではないかという深刻な疑いが生まれてきた
(p133)


「役に立つ」ことを前面に押し出しているブログ「きょういくユースフル」を書いている身としては、耳が痛いです。しょんぼり
また、情報化がますます進んでいく今のネット社会において、自らが率先して消費者となり、多くのコンテンツをただただ消費していく消費者であることもまた、自覚せずにはおれません。
ただ消費するだけで、何も成長していないということは、我が身を振り返っても、あるかもしれません。
本当に役に立つとはどういうことか。
サカナをとってやることか。サカナの取り方を教えてやることか。
いろいろと、もやもやするのです。
考えるのです。
そして、それが、今こそ、必要なことなのかもしれません。

↑さっき見つけたフリー画像。
 似たようなことを僕はしているなあ、と思いました。
 「役に立つ」だけで、周りを育てることに本当になっているのかどうか、自問自答しています・・・。

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