「『関係支援』の具体的展開」 ~拝野佳生『関係支援を核とした学級づくり』その3
一昨日から、以下の本の読書メモを書いています。
本日が、第3回です。
『関係支援を核とした学級づくり 「特別でない」特別支援教育をめざして』
(拝野佳生(はいのよしき)、解放出版社、2023/11、税別2000円)
↓過去記事は、こちら。
第1回: 子どもたちをつなごう!
第2回:「人権意識の”変わり目”となったエピソード」
本書には僕の心に突き刺さったエピソードや著者の考えがたくさんあるのですが、全部紹介しているときりがないので、絞りに絞って、書いていきます。
今日は、「第2章 『関係支援』の具体的展開」の内容に、入ります。
著者の拝野先生は、現場の教員を長く勤められておられましたが、1997年には兵庫教育大学の大学院に進学されています。
#その後、現場に戻ってこられています
実践者でありながら研究者でもあり、先行研究などにもお詳しいようです。
そのため、本書には具体的な先行研究や文献の引用もみられます。
たとえば、第2章では、鯨岡峻(くじらおか たかし)さんの次の言葉が引用されていました。
・「子どもを育てる立場の多くの人は、
『育てる』ということの根本を見失って、
ひたすら何かを教えて力をつけることが育てることだと
錯覚してしまっているように見えます」
(p57 鯨岡峻(2011)『子どもは育てられて育つ-関係発達の世代間循環を考える』慶應義塾大学出版会より)
「育てる」ということを改めて問い直す、ドキリとする文です。
「育てる」とは、はたして、「教える」ことなのでしょうか。
「力をつける」ということなのでしょうか。
鯨岡さんも、著者も、それは同義ではないと考えているようです。
この引用の後、この項の最後で、著者は
「個別支援をしてくれる大人が複数いることについて、いま一度、しっかり考えておく必要がある」
と書かれています。
ここに、大人が子どもを育てるのか、子どもが育つのか、という、発想の逆転があるのです。
「子どもを主語にした教育」といったみみざわりのいい言葉は、昔からありました。
しかし、それが単なる標語ではなく、ほんとうに子どもたちのものになっているのか、僕たちは今一度、しっかりと考えていかなくてはなりません。
その次の項は事例ですが、その事例の中で著者は
「当時、私は、友だち同士の『教え合い』を授業に取り入れた『仲間づくり』にとりくんでいたので、単刀直入にいえば、支援員は不要でした。」
と書かれています。
#「教え合い」の具体的な内容は本書をお読みください
大人がいなくても子どもたちが育つ教室。
僕は、これが、理想だと思います。
僕も、ここ20年くらい、ずっと追い求めてきたかたちです。
#昨年もこのブログで実践報告を書きました。
支援員も、教師すら、いなくて成り立つような教室が、理想なのです。
事例後の「考察」から、そのエッセンスを、少しだけ引用します。
・友だち同士を互いの支援者にするという発想
・そういう関係を意図的に組織すればいいのです。
・私は、ここに特別支援教育の活路を見いだせると考えています。
(p61)
「特別支援教育」の発想を逆転させる。
そのことで、むしろ、活路が見いだせるのです。
一昨年、日本の「特別支援教育」のあり方が国連から批判されたのは、まだ記憶に新しいところです。
(参考リンク)
▼国連が日本政府に勧告「障害のある子どもにインクルーシブ教育の権利を」
(Yahooニュース、野口晃菜、2022/9/10記事)
過度に競争主義に陥っている通常学級のあり方を見直し、分離教育のシステムを改めるように、勧告がなされました。
日本の「特別支援教育」は、舵を切る局面に立たされています。
著者の提案はなにも珍しい突飛なものではなく、同じような考え方で実践されている教育実践者は無数にいます。
その実践を、国を挙げて広げていくときにきているのではないでしょうか。
「考察」の最後では、伊藤良子(2009)の論文中での言葉が引用されています。
最後に、その言葉も、みておきましょう。
#長くなるので、部分的な引用にとどめています。
・「人間はみな偏りをもっている。
人間はみな発達障害なのである。
自らの偏りを誇り、他者の偏りを尊敬しよう。」
(p57 伊藤良子(2009)「人間はみな発達障害」伊藤良子・角野善宏・大山泰宏編『京大心理臨床シリーズ7「発達障害」と心理臨床』創元社 より)
ここにきて、発達障害か、そうでないかというくくりも、消えてしまいました。
上の言葉を借りれば、みんなが発達障害であり、「障害者」なのです。
みんなが、当事者なのです。
僕は若い頃、国語の研究大会で、斎藤孝さんの講演を聞いたことがあります。
斎藤孝さんは、「偏って愛す」と書いて「偏愛」というものを重視されていました。
偏って愛しているものをお互いに知らせ合い、つながり合うことを説かれていました。
「偏愛マップ」をつくり、お互いに見せ合うという取組は、上に書かれている考え方と、重なる取組ではないかと思います。
『偏愛マップ キラいな人がいなくなるコミュニケーション・メソッド』/齋藤孝
僕自身、かなり偏った人間です。
#得意と不得意の差が激しい
#好きなことについてはかなりこだわります
日本社会は同調圧力が強いので、偏った人間が、偏っているところをまるでイケナイことかのように、錯覚してしまう傾向があります。
そうでは、ないでしょう。
むしろ、そこを、大切にしていかないと、いけないのではないでしょうか。
それこそ、SDGsでも言われている、多様性尊重の教育の、ほんとうの意味です。
いろいろな人がいるからこそ、いいのです。
だからこそ、楽しいし、おもしろいし、学び合えるのです。
長くなりました。
あなたは、いかが思われたでしょうか?
続きは、また明日!
(明日が、本書の読書メモの最終回の予定です。)
▼斎藤孝『今、そこにある苦悩からの脱出』1 ~四股踏み、ストレッチで身体に関わる
(2012/09/09の日記)
▼【障害理解教育】4 そのほかの教材(本や絵本)
(2015/08/21の日記)