「わたしひとり、立派な人に見られたって、なんにもならない」 ~『知里幸恵物語 アイヌの「物語」を命がけで伝えた人』その3

アイヌ関連のブログ記事を続けています。
​今回も、以下の本の読書メモの続きです。

知里幸恵物語 アイヌの「物語」を命がけで伝えた人
(PHP心のノンフィクション:小学校高学年・中学生向け)
(金治直美、PHP研究所、2016、税別1400円)

↓過去記事はこちらぽっ
アイヌへの差別 ~『知里幸恵物語』その1
「外からの目」で見えてくるもの ~『知里幸恵物語』その2
本書の読書メモの最終回として、僕がどうしても引用したいと思ったところを紹介します。
『アイヌ神謡集』の出版直前、ある雑誌から執筆依頼がきたときのことです。
雑誌社の方から、「アイヌと知られると世間の人に見下げられるのではないか」と心配されたと聞いた時の、幸恵さんのことばを引用します。


​・だまっていればアイヌとわからない、ですって?
 では、わたしにシサ(和人)のふりをしろ、と?
 そんなことをしたって、わたしはアイヌよ。
 口先で​
シサといって、なんになるの?
 アイヌだから世の中から見下げられるなら、それでもいいわ!
 自分のウタリ(同胞)が見下げられているというのに、
 わたしひとり、立派な人に見られたって、なんにもならないもの。
 それよりも、たくさんのウタリとともに見下げられたほうがいい。
 それはちっともおそれることではないわ。

(『知里幸恵物語』p134-135より)


アイヌとしての誇り、プライド、仲間意識・・・いろいろなものが、真摯に伝わってきます。
ひるがえって自分自身のことを考えたときに、
自分はこれだけの思いを持って生きていっているだろうか?
ということを思います。
「何のために生きるか」
そういったことを、あらためて思いました。
3回にわたって書いてきた本書の読書メモはこれで終わります。
次回からは、次の本の読書メモを書く予定です。
現代日本の北海道における、巡回の記録です。

『アイヌのことを考えながら北海道を歩いてみた 失われたカムイ伝説とアイヌの歴史』
[ カベルナリア吉田 ]


この冬読んだ、アイヌに関する本4冊
 (2024/01/29の日記)
過去に学べ ~万博が抱える黒歴史「人間動物園」(東京新聞)
 (2024/01/28の日記)
▼​「文字」という文化で失ったものがある(『ハルコロ』その1)
▼​「文字」という文化で失ったものがある2(『ハルコロ』その2)

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