「愛」という言葉も、とらえ方次第? ~荒井裕樹『どうして、もっと怒らないの?』その5
『どうして、もっと怒らないの? 生きづらい「いま」を生き延びる術は障害者運動が教えてくれる』
(荒井裕樹、現代書館、2019、税別1700円)
連続記事です 過去記事はこちら↓
第1回→ 「障害者に『主体』があるとは思われていなかった」
第2回→ 「本当の社会参加とは」
第3回→ 「健全者がつくった空気」
第4回→ 「生きるに遠慮がいるものか」
今回が第5回。
本書の第5話「『ポスト相模原事件』を生きる」を読み返しながら、覚えておきたいことのメモをさらに綴っていきたいと思います。
章タイトルになっている、相模原の山ゆり園の事件については、ご存じでしょうか?
「障害者」に関わる様々な問題について考えるとき、この事件のことはどうしても忘れることはできません。
ネット上でその概要を見ることができます。
今回の内容に入る前にご一読いただいておくといいかと思います。
NHKが以前報道したものへのリンクを貼っておきます。
▼相模原 障害者施設19人殺害事件6年 「誰もが生きやすい社会に」
(NHK首都圏ナビ、2022年7月26日)
非常にショッキングな事件であり、それと同時に、加害者の殺害動機については、非常に考えさせられるものがありました。
加害者1人の問題ではなく、この社会全体の「空気」が加害者にそうさせた部分もあるのではないかと、感じています。
前回僕が書いた「生きるというだけで意味がある」という価値観と真逆の価値観が引き起こした事件ではないかという気がしています。
それを受けて、第5話は、中島岳志さんとの対談回です。
荒井さんの前著『差別されてる自覚はあるか 横田弘と青い芝の会「行動綱領」』の出版後に開催された公開対談会で、そちらの本についての話が交わされています。
『差別されてる自覚はあるか 横田弘と青い芝の会「行動綱領」』
(荒井裕樹、現代書館、2017、2420円)
以下は、その本に書かれていた内容によるものです。
発言者は、中島さんです。
・障害者に向けられた愛とか正義というもののなかに含まれている暴力を告発するというのが、横田さんにとっての非常に重要な指摘だった
・「やってもできないに決まっているから、代わりにやってあげる」。
これが「代わりにやってあげるから、何もしないで」になり、
「なにかしようと思わないで」になり、
「私の言うことを聞いて」になり、
最後は「自分の意志をもたないで」になっていく。
・(横田さんは)過剰な保護がもつ「優しさ」や「親の愛」に対して非常に厳しい人だった
(p169-170より)
僕は横田さんの当事者運動における行動綱領を読むまでは、「愛と正義」については、いいイメージしか持っていませんでした。
#「正義」については、「戦争はすべて正義の戦争として始まる」という意見にふれてからは、少し警戒して考えるようになっていましたが、「愛」については手放しで礼賛するところがありました。
それが、荒井さんの前作の『差別されてる自覚はあるか 横田弘と青い芝の会「行動綱領」』を読むことで、くつがえされました。
それは非常にショッキングであり、たくさんの「?」を僕に投げかけてきました。
だからこそ、こうやって、「?」の背景を追究しようとしています。
2冊目である『どうして、もっと怒らないの?』も読むことで、この行動綱領の理由が、よりはっきりと見えてきた気がします。
結局は「愛」という言葉も、とらえ方次第なのだなあと思いました。
「愛」にもいろいろな愛があり、一方的な「愛」もあります。
僕は、人間のすべての問題は、つまるところ最後は「愛」の問題に帰着するのではないかという気がしています。
その「愛」のとらえ方ひとつで、真逆に行ってしまうことがあるのを山ゆり園の事件などから感じ、恐ろしく思っています。
僕が上に引用したところの続きにも、とても印象的な言葉が多く出されていました。
僕は、そのひとつひとつにとても考えさせられました。
たとえば、
「最終的に機会を奪う親の『優しさ』」
「親が障害者を囲い込んでしまっていた」
「青い芝の会の運動って、『能力主義』にたいして徹底的に反発した」
といったことなどです。
(3つの言葉はすべてp170より)
皆さんは、どう思われるでしょうか?
横田さんは親の「愛」を糾弾した方でした。
横田さんの場合だけでなく、「子ども」を親の「愛」が縛っていることが、大人がよかれと思って勝手に判断して、子どもから主権を奪っていることが、多々あるように思います。
僕は第1回のときに、「学校教育の中で、あまりにも『子ども』を客体としてとらえすぎているのではないか」ということを書きました。
ここのところで、僕が第1回に書いたこととも、つながってくる気がしています。
僕は、子どもが問題を起こした時に、恥ずかしながら、「黙って言うことを聞いていればいい」と思ってしまうことが、たくさんありました。
大人として、親として、教師として、自分を振り返って、反省するところが、たくさんあります。
さらに、荒井さんは次の言葉も、言われています。
・結局は「健全者」にとって都合の良いかたちでなら障害者は生きていてもいいよ、ということではないか
(p171)
逆の言い方をすれば、「健全者」が中心の社会で、障害者は簡単に「生きていてもしょうがないよ」とみなされてしまうこともある、ということだと思います。
そういった「健全者」中心の社会が、相模原事件を生んだことは、想像に難くありません。
ひるがえって、「学校」という場に置き換えて考えてみても、そのままこのことが「学校」という場でも当てはまってしまいそうで、恐ろしくなります。
「大人にとって都合のいいかたちでなら、子どもはその場にいていい」ということになっていないか。
障害者問題に限らず、差別や貧困、子どもを取り巻く様々な問題が、学校という社会の縮図の中で、現れています。
学校や社会が、多様な人たちにとって、必ずしも生きやすい場になっていないということが言われています。
本書は学校教育に関して書かれてものではありませんが、本書の問題提起を、僕は「学校」という場に置き換えて考えてみたいなあ、と思っています。
次回も、第5話「『ポスト相模原事件』を生きる」の後半から、いろいろと考えてみたいと思います。
もう少しだけ、本書の読書メモを続けます。
ぜひ、また明日も、見に来てください。