「生きるに遠慮がいるものか」 ~荒井裕樹『どうして、もっと怒らないの?』その4
以下の本の読書メモを続けています。
『どうして、もっと怒らないの? 生きづらい「いま」を生き延びる術は障害者運動が教えてくれる』
(荒井裕樹、現代書館、2019、税別1700円)
連続記事です。過去記事はこちら↓
第1回→ 「障害者に『主体』があるとは思われていなかった」
第2回→ 「本当の社会参加とは」
第3回→ 「健全者がつくった空気」
筆者の荒井さんは、
「日本の障害者運動って、名言をたくさん残しているんですよ。」
と書かれています。
(p79)
今まで紹介してきた内容をふまえて、ここでぜひ引用しておきたい「名言」があります。
それを紹介せずにはおれないので、ババンと!引用させていただきます。
・「生きるに遠慮がいるものか」
(p80、花田春兆さんの言葉)
これは、すごい。
短い言葉の中に、今までの話がすべて凝縮されているように感じました。
結局、日本の社会が「遠慮」を強いているんです。
そんな社会はおかしい、という声を、あげなくちゃいけない。
「遠慮しながら生きていけ」と遠回しに言ってくる社会を、社会自体を変えていかなければならない。
そのためには、遠慮しながら生きていくなんてことは、はなから、しなくていいんだ。
僕は、「生きる」ということが、ただそれだけで尊いものだということを、改めて教えてもらった気がしました。
それにつなげて、今度は川口有美子さんとの対談のところから、川口さんの言葉を引用させていただきます。
・私ね、エゴってすごい大事だと思っているのね。
(p92、川口有美子さんの言葉)
キターーーーって感じです。
これぞ、「全肯定」。
こう言ってもらえると、安心できる自分がいます。
「エゴ」と「遠慮」って、表裏一体なんですよね。
エゴイズム丸出しだと、もっと周りのことを考えろ、と言われる。
そこを、「エゴって大事」と言われると、救われる。
むしろ、そう言っていかなくちゃいけないんじゃないか、と思います。
そうでないと、救われない場合もあるのではないか。
日本は文化的に自己主張をしないことを美徳とするところがあって、学校でも「自分勝手」はすごく戒められるし、社会の中でも「出る釘は打たれる」というところがあります。
ただ、外国ではむしろ逆に、「自己主張をしないといけない」と教育されているところを感じるので、そのあたりは日本と外国を対照的に見ながら、自分自身、日本の社会を考える上で、もっと考察を重ねていきたいなあと感じているところです。
とりあえず今のところは、僕は、「エゴ」とか「自分」というものは、少なくとも今の日本の社会では、もっと出していっていいのではないか、それが当たり前ではないか、ということは思っています。
それが、生きにくい社会を変えていくことにつながるのではないか、と思っています。
今回引用したところは、第3話「『いのち』を支える言葉たち」のところです。
荒井さんと川口さんの対談の回です。
このお2方の対談のシーンでは、詳しくは引用しませんが、かなりショッキングな実際にあったことの話も次々と出てきて、僕はめまいがしそうでした。
社会というものの残酷さに、絶望しそうになりました。
社会が、いのちに対して、次々と要求をしてきている。
そのいのちに意味があるのかとか、役に立っているのかとか、冷たい刃で突きつけてくる。
そういうときに、はねかえせる力というのは、「生きるに遠慮がいるものか」とか、「エゴってすごい大事」とかの、強い言葉です。
僕たちは、「なんのために」生きているのか。
それを社会から問われるのは間違っている。
個人の命よりも社会が優先されている社会ならば、僕たちはむしろ、こう問い返さなければならない。
「なんのための、社会なのか」と。
前回僕が書いた言葉を、ここで、もう一度書きます。
「インクルーシブ社会」や「共生社会」をほんとうに実現していくなら、社会の「空気」を変えなければならない。
それに気づかせてくれるのが、当事者の言葉です。
当事者側からの発信です。
こういった本でそれを知らせてくれることを、ほんとうにありがたいことだと感じます。
次回は、第5話「『ポスト相模原事件』を生きる」を読み返しながら、覚えておきたいことのメモをさらに綴っていきたいと思います。
もう少し、本書の読書メモを続けます。
よかったら、また明日も、見に来てください。