「能力という名の信仰」 ~孫泰蔵『冒険の書 AI時代のアンラーニング』その5
『冒険の書 AI時代のアンラーニング』
(孫 泰蔵、日経BP、2023/2、1760円)
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第1回 第2回 第3回 第4回
今日は、第3章「考えを口に出そう」(p155~)を参照します。
さあ、いよいよ僕が本書で一番衝撃的だった
「能力という名の信仰」という話に入っていきます。
この話はいきなりだとなかなか腑に落ちにくい。
僕たちが能力主義の社会に染まりきっているためでしょう。
順を追って、いきましょう。
p167~の「循環論法のトリック」のところで、本書では、こう書かれています。
・「高い能力こそが良い結果の原因である」と考えるようになった。
(p170)
これがまさに循環論法であり、トリックなのです。
ただ、僕は循環論法ということ自体がよく分からないので、別の角度から考えてみたいと思います。
#エクセルの数式のエラーで循環論法のエラーが出てもよく分からない。
本書には、人間が「能力」を信じるに至った経緯が、様々な角度から書かれています。
その中で、
「自分たちを機械のようなものだと考えるようになった」(p174)
という説明のほうが、僕には分かりやすかったです。
たしかに、人間は機械ではないのに、近代化の中、人間を機械のように数値化したりデータ化したりするようになってきました。
#子ども時代は戦国ゲームで武将の能力を数値化したゲームで遊んでいました。
本書では次のようにまとめられています。
・能力というのは、あくまで結果論であり、同じようなことをしている他人との比較でしかない。
・フィクションでしかない
(p176)
あなたは、これを読んで、どう思いましたか?
結果論ということは、どういうことでしょう?
たとえば同じ人間であったとしても、
バッターボックスに打者として立って、5打数4安打であれば「能力がある」と見なされ、
5打数0安打であれば、「能力がない」と見なされるということです。
実は僕はエクセルでランダムで結果が変わる野球ゲームを開発しています。
→ ダイナミック・ベースボール 脳内野球
この野球ゲームにおいて、実は、こういうことは、頻繁に起こっています。
この野球ゲームでは「能力」の値を設定することができます。
能力の値が高ければ、よい結果が出やすく、
能力の値が低ければ、よい結果が出にくくなるように
プログラミングされています。
ただ、ゲームはランダム性を取り入れているので、確率の要素がからんできます。
設定した能力値が低かろうが、偶然良い結果がでれば、良い成績になります。
設定した能力値が高かろうが、偶然悪い結果になれば、悪い成績になります。
「設定した能力値」というのは本来は目に見えないデータですので、
目に見えるデータは、成績のみです。
「設定した能力値」は、成績と必ずしもイコールになりませんが、
成績だけで判断すると、
成績がよければ能力が高い、と判断することになります。
でも、これはゲーム制作者の視点で見ると、間違っています。
「いや、それは、偶然だよ」
「そんなふうには、つくっていないんだけどな」
ということになります。
本書では上の事例のように、たまたまにすぎないのに能力を決めつけてしまうようなバイアス(認知のゆがみ)を、「成果バイアス」(p178)として説明しています。
また、このように結果から能力を評価する社会の危うさについても、述べられています。
・結果論で物事や人を評価する社会は、
自分たちの首をしめることになる
・結果論で失敗をこきおろす社会では、
人々はリスクをとって大胆な決断や行動をすることをためらう
(p178)
結果だけで一喜一憂するということは、プロセス(過程)よりも結果を重視するということです。
僕は、本書を読んで、「結果よりも、やはり、プロセスを大事にしなければ」と思いました。
本書には、
「人間のすべての活動は本来、好きだから楽しく真剣にやっている、ただそれだけで十分なはずです。」(p180)と書かれています。
結果を気にしなければ、過程を満喫して、もっと楽しく過ごすことができそうです。
僕はこれを読んで、「評価する」ことの負の面に気づきました。
「評価」で思い出すのは、「評価する授業」と「評価しない授業」を僕が目の当たりにしたときです。
「評価する授業」は、一般的な、普通の授業ですね。
「評価しない授業」というのは、今は、ほとんど目にしなくなりました。
ただ、小学校に「外国語活動」が新しく入ってきた当初は、この授業には評価がありませんでした。
子どもたちは、英語で歌を歌ったり、単純なゲームをしたりして、楽しんでいました。
そして、「楽しかったどうか」でアンケートをとると、なんと、「楽しくない」と答えた子がまったくいない、ということが起こっていました。
あのときの子どもたちは、「学び」を「遊び」のように楽しみ、ただ楽しむだけで、済んでいたのです。
「外国語活動」自体は今もありますが、小学校でも高学年が「外国語科」という教科に変わり、評価が入ってきたことで、「外国語活動」の時間も、活動そのものをただ楽しめばよいというものではなくなってきている気がします。
本書の「評価は人から自信を奪ってしまう」(p182)という指摘に、僕はかなり衝撃を受けました。
同時に、自分の今までの経験から、かなりうなづけるところを感じました。
では、いったい、「評価」をせずに、何をすればいいのでしょうか?
実は、本書では、「評価にかわるなにか」(p185)についても、模索されています。
そのひとつが、「アプリシエーション」です。
なんと、『人を動かす』のなかの言葉です。
『人を動かす 文庫版』 [ デール・カーネギー ]
「アプリシエーション」はもともと英語なので、日本語での説明がちょっと難しいのですが、本書では次のように説明されています。
・ある人や物をきちんと理解する
・相手の良いところを理解してほめるというあたたかいまなざし
(p186)
・ただそれが「ある(在る)」ということがいかに「ありがたい(在り難い)」ことかという点に意識を向けた態度
(p187)
・尊敬と愛情と感謝
(p188)
いろいろな言葉で言い換えられていますが、伝わってくるものがあったでしょうか?
興味を持たれたら、ぜひ本書を実際に読んで、すべての説明に目を通していただければと思います。
僕が部分的に抜き出したところだけを読むより、ストーリーとして、文脈の中で読まれた方が、絶対に分かりやすいと思います。
とりあえず僕は、「人を動かす」のオーディオブックを、もう一度聴き返しました。
長くなりました。
最後に、第3章の終わりに挿入された「Q&A」のところから、1カ所だけ引用して終わります。
・「能力はあくまでも結果論であり、相対評価でしかない」
(p211)
あなたは、いかが、思われたでしょうか?
次回は、第4章「探究しよう」に入ります。
では、また明日、お会いしましょう!!
▼人生がパッと開ける、斎藤一人さんの考え方 ~『神はからい』
(2006/07/28の日記)
↑斎藤一人さんが『人を動かす』の本をすすめていることが書いてあります。
#僕も、おすすめしています。