「いろいろなものが分けられたことによって・・・」 ~孫泰蔵『冒険の書 AI時代のアンラーニング』その4
夏休みを利用して、とことん学んでいる、にかとまです。
今日は勤務校での奉仕作業の後、午後は勤務市の隣の市の教育研究集会で学んできました。
ブログでは今日も、『冒険の書 AI時代のアンラーニング』の読書メモを書きます!
ぜひ、おつきあいください。
『冒険の書 AI時代のアンラーニング』
(孫 泰蔵、日経BP、2023/2、1760円)
過去記事はこちら→ 第1回 第2回 第3回
今日は、第2章「秘密を解き明かそう」(p93~)を参照します。
2日前の第2回の時にイリイチさんの名前だけを出して、
「イリイチさんの言葉は、たぶん、また今度引用することになると思います」
と書いていたのを、覚えていますか?
今回は、そのイリイチさんの主張から紹介します。
・教える側ががんばって教えれば教えるほど、
学ぶ側はどんどん受け身になってしまう。
その結果、教育の専門家である教師に教わらないとダメだとますます思うようになる。
(p100、イリイチ『脱学校の社会』(1970)による
あなたは、これを読んで、どう思いましたか?
イリイチさんは、「教える人」と「学ぶ人」がきれいに分けられてしまうことによる弊害を語っています。
ほんとうは「学ぶ人」はだれもが、自分の力で学ぶ力も意欲も、もっていたはずなのに、「教えられる」ことに慣れてしまい、もともとあった「学ぶ力」を忘れてしまうのです。
「教育」を「学校が担うものだ」と教えられてしまったがゆえに、
「学ぶ」ことを学校まかせにしてしまうのです。
僕たちは「高度に専門化された社会」に生きていると思い込まされているがゆえに、
「専門家じゃないから、わからない」
「専門家に聞いて、そのとおりにするのが一番だ」
と、安易に考えてしまうようになってしまった。
いま、社会全体に、こういった画一的な思考が、はびこっています。
本書は、それに対する警告を、大変分かりやすいかたちで、書いてくれています。
僕がずっと考え続けている、「特別支援教育」についても、同じようなことが言えます。
「特別支援教育」では「専門機関との連携」が大事だと言われていますが、それがともすれば、「専門家に任せておけばいい」になってしまっていないでしょうか?
ことさら個人の中の「障害」を強調することより、「専門家でなければならない」と思い込むことが、みんなが同じ場所で共に学ぶインクルーシブ教育を阻害していると思えてなりません。
第2章では分けられてしまうことによる弊害が、ほかのことに関しても書いてあります。
たとえば、「遊び」について。
・子どもも大人も 企業が「遊ばせてくれる」ことを期待して
お金を払い、期待が裏切られると「損をした」と感じる
(p107)
「遊び」はもともとすべての人の主体的な、自由な行動の発露であったはずです。
それなのに、「遊びのプロ」と呼ばれる人が生まれ、「遊び」を商品化してお金を取るようになると、人々は「遊び」をお金を払って消費するようになってしまった。
ここで失われてしまったものは、とても大きいです。
「いろいろなものが分けられたことによって、人間の生活はさらにつまらなくなった」(p109)と本書には書いてあります。
僕はこれを読んで、非常に共感しました。
僕はこれまで「インクルーシブ教育」(共に学ぶ教育)について学んでくるなかで、「分けること」について、何度も考えてきました。
本書を読むことで、障害の有無で居場所を分けることだけでなく、
「分けること」そのものがもつ、様々な危うさを考えることができました。
そんな本は、なかなか出会えないのです。
僕がこの本の読書メモを、数回にわたってブログで書き続けているのも、それだけ貴重な指摘がされているからです。
本書ではほかにも、「子ども」と「大人」の区別についても触れられています。
「区別こそが人間の生活を貧しくした」(p115)という発想。
僕はかなり衝撃を受けました。
皆さんは、どう感じられるでしょうか?
次回は、第3章「考えを口に出そう」の中身を取り上げます。
では、また明日、お会いしましょう!!
▼「共に学ぶ教育」とは( 「普通学級での障害児教育」本の内容まとめ2)
(2006/07/28の日記)
▼人権週間に読みたい本 前田良『パパは女子高生だった』
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