「解き放とう」 ~孫泰蔵『冒険の書 AI時代のアンラーニング』その2

『冒険の書 AI時代のアンラーニング』という本、
昨日受講したICT研修の講師の先生も紹介されていました。
「これからの教育」を多面的・多角的な視野で考えるには、
もってこいの本です。
昨日​の長い前振りをふまえて、
いよいよ、本書の第1章に入っていきます。大笑い

『冒険の書 AI時代のアンラーニング』
(孫 泰蔵、日経BP、2023/2、1760円)

本書第1章は、解き放とう
学校ってなんだ?」という話から、始まります。


・もしなんにも制約がなかったら(略)
 ひとつの学校に縛られるのではなく、いろんな学校で好きなように学べたらいいんじゃないか。
 それも学校単位じゃなくて、あの先生のこのクラス、この内容、という細かい単位でえらべたほうがいいんじゃないか。
 もっと言うなら、学びたいものや人がいちばん集まっている最前線の「現場」や、探究者がいちばん集まっている「本場」で学べたほうがいいに決まってる。
(p20)


これは、大学や、社会人になってからの「生涯学習」には、かなり当てはまるかな、と思いました。
小学校にも、こういう要素が、少しずつ入ってくるのかな?
小学校の場合、大学みたいに自分で全ての授業を選んで教室を行き来するのはあまり合っていない気はしますが、「学級」という枠自体は、ゆるめていっていい、と思います。
「えらべる」というのは、かなりのキーワードだと思っています。ぽっ
自分で決めたことを、自分で学ぶ。
受け身の学習ではなく、主体的な学習を、おこなう。
そのためには、場や環境が、重要になってきますね。スマイル


・21世紀は答えのない世界。
 だから「教える」という概念もなくなる。
(p33)


上に引用した箇所は、「有名な大学の学長のインタビュー」のなかで、
その学長が話していた内容だそうです。
これについて記者はいろいろな質問をおこないますが、
その背景には常に「どんな能力を身につける必要があるか」という
考えがありました。
そこで本書の中の「僕」は、違和感を感じます。
そして、


・記者の質問の背景には、
 「能力を身につけないと生き残れない」
 という考えがありますが、
 僕はこの考え方こそが世界をダメにしていると思います。

(p33)


と書かれていました。
昨日のブログでも書きましたが、
本書で僕が一番衝撃的だったのは
才能や能力は迷信
能力という名の信仰
という言葉でした。びっくり
「教育」そのものが、本当に、大転換期に来ているんだなと思いました!
能力を身につける「教育」からの転換が問われています。
なにしろ「AI時代」です。
暗記や計算などの「能力」は、AIのほうがバツグンに高いのです。
今こそ、「人間」というものをとらえ直し、
「教育」というものをとらえ直さなければ時代に来ていると思いました。
「できる」「できない」にとらわれている時代から、
時代は確実に、その向こう側に向かおうとしています。


・学びとは本来、
 「学びたいから学ぶ」という、
 自らすすんでする行為なはず。
 それなのに、
 学校は学びを「教わる」という受け身のものに変え、
 子どもたちを「教育サービスの消費者」に仕立て上げてしまいました。
(p41)


このあたりは、僕が本書と並行して読んでいた次の本とも、かなり重なってくるところだと思います。

『学びの本質を解きほぐす』
(池田 賢市
、新泉社、2021、2200円)
受け身の学習か、主体的な学習か。
「主体的な学び」と、言葉で言うと一言で済みますが、これを実現するには、その背景として「どんな学校であるか」がまず重要になってきます。
今の「学校」は、上で指摘されているとおり、子ども本人や保護者を、「消費者」に仕立て上げてしまっているのかもしれません。
「学ぶ」ということは子どもにとっては権利であり、義務ではありません。
学校は、子どもの学ぶ権利を保障する場所であり、強制する場所であってはならないはずです。
まずそこのところを押さえなければならない。
重要な指摘が、ここで、されていると思います。
ところで本書のおもしろいところは、教育学や社会学、哲学などの歴史上の重要人物が、小説の中に、実際に登場するところにあります。
あれ、言ってませんでしたっけ?
この本って、小説なんですよ。大笑い
その紹介の第1弾として、「フランスの哲学者ミシェル・フーコー」さんの言葉を、次に引用しましょう。


・「学校は、監視・賞罰・試験という3つのメカニズムの複合体だ。
  規律や訓練で子どもたちを秩序の中にはめ込み、
  生徒が自ら服従するよう、巧妙にできているのだよ」
(p45、本書の中のミシェル・フーコーの言葉)


これはフーコーさんの時代の「学校」について述べたものですが、今の「学校」も、実はあまり変わっていないのかもしれません。
と言っても、そんなに昔の人ではなく、上で紹介されていた言葉の元になった本『監獄の誕生―監視と処罰』は、1975年に出版されています。
僕の生まれた年です・・・。しょんぼり
本書ではフーコーさんとセットで「オーストラリアの哲学者イヴァン・イリイチ」さんにも言及されていますが、イリイチさんの言葉は、たぶん、また今度引用することになると思います。
フーコーさんの名前を聞くと、「フーコーの振り子」をまず思い出しました。
#別人です。
​イリイチさんの名前は、神戸大学の津田先生の著作で出てきたのを、思い出しました。
(▼
「障害」の「社会モデル」を考える ~津田英二『物語としての発達/文化を介した教育』
今までの僕自身の学びが、本書で、いろいろとつながってきたのを、実感しました。​スマイル

さてさて、このお2人の哲学者が登場した回の最後に
本書の主人公の「僕」は、こうふりかえっています。
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓


・子どもたちを今の社会に合わせられるようにするのではなくて、
 むしろ子どもたちが現状を変えていけるように、
 現状から解放されるような教育を行うべきだよ。
(p48)


さあ、はたして、そういった新しい教育を、どのようにしておこなっていけばいいのでしょうか?
その答えに向かう前に、本書はまだもう少し、長い歴史の中でできてきた教育の呪縛をとらえ直すことが続きます。
長くなりましたので、今日は、ここまで。
第1章「解き放とう」後半に続く!!大笑い
​​​​

▼​菊池省三対談集『「教育」を解き放つ』
 (2021/08/15の日記)

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