今の「教育」の根本的な問題とは!? ~『「共に生きる教育」宣言』その1
「インクルーシブ教育」関係の投稿を、もうちょっと続けます。
今読み返した本と、昨日読んだ別の本の内容が自分の中でバチッとつながったので、そのことを書きます。
僕が初任の頃には、「障害児教育は教育の原点である」といったことを教わりました。
そして、「障害のある子もない子も、同じ場所で共に生き、共に学ぶ」という方向性を教わりました。
では、さらにその「教育」の原点をつきつめていくと、何になるのか?
「共に生きる教育」についてかなり詳しく書かれている以下の本には、冒頭で次のように書かれています。
『「共に生きる教育」宣言』
(堀 正嗣、解放出版社、2022/7、税別1800円)
・徹底的に子どもの側に立って、愛情をもってありのままの姿を肯定するのか、
能力主義や優生思想の影響を受けて、子どものありのままの姿を認めることができないのか、
このことが根本の問題だと考えています。
(上掲書p13より)
「上のことと同じことかな」と思った、最近出た本の中の別の表現が、以下のものです。
『冒険の書 AI時代のアンラーニング』
(孫 泰蔵、日経BP、2023/2、税別1600円)
・評価は人から自信を奪ってしまう。
(p182)
・「誠実に、心をこめて、相手の良さを認める。」
(p186、デール・カーネギー『人を動かす』の中の言葉)
上の本は全くインクルーシブ教育について書かれた本ではないのですが、それだけに、今までの学校教育における「評価」の問題点にふれ、代替案を示されていたことに、大変感銘を受けました。
『冒険の書』のp186において、筆者は「評価」に代わるものとして、デール・カーネギーの「アプリシエーション(appreciation)」というキーワードを示されています。
「アプリシエーション(appreciation)」には「尊敬」「愛情」「感謝」(p188)という意味があり、他者を評価する代わりにそのようなまなざしで見ることが提案されています。
学校教育における「評価」や「能力主義的価値観」は、見直されるべき時に来ています。
次回も、『「共に生きる教育」宣言』の別のページを引用させていただきながら、「能力」ということをどう見るのかを考えていきたいと思います。
つづきます!