「考え方の違いなんて、当たり前」 ~工藤 勇一×鴻上尚史『学校ってなんだ! 日本の教育はなぜ息苦しいのか』その2

工藤 勇一さんと鴻上尚史さんによる本
​『学校ってなんだ!​』
の読書メモ、第2回です。

『学校ってなんだ! 日本の教育はなぜ息苦しいのか』
(工藤 勇一×鴻上尚史、講談社現代新書、2021、税別900円)

↓第1回は、​コチラ​。大笑い
「表現」。そして「身体化」 ~工藤 勇一×鴻上尚史『学校ってなんだ! 日本の教育はなぜ息苦しいのか』その1
前回は鴻上さんの言葉を引用したので、今日は工藤勇一先生の言葉を引用します。
僕は、工藤勇一先生の代表的な著書『学校の「当たり前」をやめた。』の読書メモを1年前に書いています。
よろしければそちらを一度読んでから戻ってきてもらえると、工藤勇一先生の実践や考え方をふまえて、読んでもらえると思います。
工藤勇一『学校の「当たり前」をやめた。』
 (2021/7/6の日記)


​​​麹町中の数学の授業では教科書をほとんど使っていません。
 ほんとうはどの教科でも子どもたちの実態に合わせてそれぞれの先生が教材を工夫して進めるべきだと私は思います。
画一的な教材を一方的に押しつけるシステムは疑問です。
・学習指導要領がなかった時代、教員は子どもたちに何を教えるべきか、どう教えるべきか、自分で考えていたものです。​​​

(p74-75 工藤 勇一先生の言葉より)


1年前のブログ記事にも書きましたが、工藤勇一先生の考え方は、特別支援教育における考え方に、似ているところがあります。
つまり、​子どもたち一人一人に合わせて教材を考えて実践を重ねる​、ということです。
通常学級では「これをやる、あれをやる」ということが決められすぎていて、それを次々と教えていかなければならない状況に陥っているのかもしれません。
ほんとうは教科書だけを使わないといけないということもないし、指導者側にも自由度や裁量は残されているのですが、教師の側も次第に教科書を教えることだけで精いっぱいになってきているのかもしれません。
どちらにしろ、子どもたちにとって、決まり切ったことをやっていると思われる授業になりがちでは、という気がします。
工藤先生はこの対談書で、これまでの日本の教育を振り返って「以前はこういうことがあった」と話されているところが、何カ所かあります。
今の時代の教育しか見ていなかった僕は、非常に勉強になりました。
また、外国の教育と日本の教育を比べて発言されているところも、ありました。


​​​偏差値なんてことを気にするのは世界の中でも日本だけ
・知らないはずですよ、海外の人は偏差値なんて。
・全員を当事者に変えていくための仕組みをつくること
(p116 工藤 勇一先生の言葉より)


偏差値のことは具体的で分かりやすい例だったので、特に印象に残りました。
やはり、日本は過度な競争社会なのでしょうか。
「勝ち組」「負け組」が生まれるような社会は、生きづらさを感じてしまう人たちも一定数生み出してしまうので、そこはなんとか変えていけないか、と思っています。
さて、前回僕は工藤勇一先生のことを、「学校教育改革の旗頭」と紹介しました。
実際、『学校の「当たり前」をやめた。』で書かれているような、「宿題なし」「クラス担任なし」「中間テスト・期末テスト廃止」というような大きな変化を学校全体で取り入れて実現するのは、かんたんなことではなかったと思います。
そのような組織改革はいかにしてなされたのでしょうか。


最初はひとりですよ。私ひとり。
・私は異論が出るのは普通だろうとしか思っていないので、それを逆風とも思わない。

(p108 工藤 勇一先生の言葉より)


後半のページにも、「逆風」の話が出てきますので、そちらも引用します。


​​現実を受けとめることができないから、異なる意見がぶつけられることを「逆風」とか言ってしまうんですよ。別に逆風でも何でもない。
 考え方の違いなんて、当たり前じゃないですか。

​​

(p176 工藤 勇一先生の言葉より)


僕はけっこう自分の意見が受け入れられないと、へこむタイプです。
でも、考え方が違うのは当たり前なので、ほんとうはへこむようなことじゃないんですよね。
工藤勇一先生は、自分の考えをしっかり言葉で伝えることを大切にされていて、違う意見の人と言葉で話し合うことをすごく丁寧にされてこられた方だと思います。
そういう生き方を身に付けていかないと、へこんでばかりでは、成長がないですね。
へこんでないで、話をしに行こうと思います。
この本の読書メモは、次回も続けます。
それでは、また、次回!大笑い

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