「こだわるな!がんばるな!」の教え ~ひろさちや『あるがままに』

 

あるがままに-禅のこころ
(ひろさちや、世界文化社、2000、1200円)

図書館で「おっ?」と思って手に取った本。

ひろさちやさんは、宗教学者さんで、仏教や禅の教えなどを
わかりやすく、日常にからめて、しかも「おっ?」と思う角度から教えてくれる方です。

悩んでいるときや行き詰っているときに読むと、
意外な気づきがあって、スッキリすることがあります。   

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ひろさちや『あるがままに』
読書メモ ロゴ
(・以降の太字は本の内容。かなり部分的に抜粋しています。
  顔マークのあとの緑文字は僕の個人的コメントです。)

 

・どうでもいい問題でも 重大問題でも、 質は同じ。

・だからわたしは いつもサイコロでものごとを決めています。

大笑いいいですね。「サイコロで決める」!
   僕は子どもの頃、ボードゲームとか、
   サイコロやエンピツを転がしてその面によって何が起こるか決めるゲームで
   遊ぶのが、好きでした。こんなのも作って友達と遊んでましたし・・・。
   サイコロで決めるというのは、ゲーム性があって、ワクワクします。

   この本で一貫して著者が言っているのが、「こだわるな!」ということ。

   迷っているんだったら、サイコロに決めてもらうくらいでちょうどいい。

   そういう割り切りが、大事なんだろうな、と思います。

   人間万事、塞翁が馬、ということわざもありますし。

   人生何がどうなってどうなるか、人知の及ぶところではありません。(^^)
 

・苦しければ 負ければいい
・わたしたちが一生懸命がんばってえられるものは、
 たかだか社長のポスト程度

 

・自分がどう思われるか、どう受け取られるのか、ということにこだわっている。
 そのこだわりさえなくしてしまえば、スムーズに話せるようになる。
・「しゃべれない自分」というのに、生活のほうをあわせたほうがいい。

 周りの環境をそういうふうにつくり替えて、
 できるだけしゃべらずにすむ方法を考えていくこと。

・なぜ国民が武器を所有する権利をもっているのか。

 国家が万が一誤った国になったり 悪政府になった場合、
 これを倒すのは市民の団結によるほかない。
 しかし、国家は軍隊や警察機構という暴力装置をもっている
 その国家を倒すには、武器を持って集まるしかない。
 それでしか国家の悪と戦えない。

びっくり今まで、アメリカとか外国は一般市民が銃とかの武器を持っていて、
   物騒だ、と思っていました。禁止すればいいのに、と思っていました。
   ま、今でも思っていますが・・・。

   ただ、何のために一般市民が武器を持つのかについて
   説明している記述に出会ったのは初めてでした。

   確かに、日本の場合、警察・自衛隊などの国家権力側の特別な人だけが
   武器を持つことを許されているので、それは国家が暴走した時に
   民衆が戦うことが難しいということを、意味するのかもしれません。

   そういう考え方もあるのか、という、ちがうモノサシを示された気分です。

   ただ、それでも、民衆が武器を持つことには反対ですし、
   戦い方も武器に頼らない戦い方があるとは思いますが・・・。

 

・「お互いに量は少なくなるけれども、半分こして一緒に食べたほうがおいしい」

 そういう喜びを忘れている。

しょんぼりよく損か得かで考えてしまう自分がいます。
   子どもには、「1人占めしないで、分けようね」といつも言っていますが、
   自分はそれができているかどうか・・・。
   そして、「分けようね」の意味を子どもにきちんと説明できているかどうか?

 

・よく考えてみましょう。

 いいとか悪いとかいうのは比較の問題です。

しょんぼり「いい」か「悪い」かを、常に判断している気がします。
   比較の問題で、相対的に変わってくることだとは
   分かっているつもりなのですが。

   「いい」「悪い」にこだわりすぎるのは、よくない。

   おっと、これではまた「いい」「悪い」にこだわってしまうことになってしまった。

   難しいですね。
 

・理想的なかたちで解決ができるなんて考えるな、 

 解決なんかできないんだ、と思うことが大事。

びっくりなかなか挑戦的な言葉ですが・・・。

   「あきらめる」ということは、確かに必要なことだとは、思います。

   理想を追求することも大事だと思う一方で・・・。 

 

・いまのあるがままでいいんだ、いまのあるがままが最高なんだ......。

 ものごとはそこから組み立てていかないと、うまくいくはずはない。
しょんぼり主題?に入ってきましたね。
   「あるがままが最高」というのは、その言葉だけ聞くと、
   わかったような気になるのですが、
   日常生活のなかで自分や他人に対してそういう見方ができるか、
   という難しさがありますね。 

・仏教のほんとうの教えは、ゴミを気にするな、ということ。

 ゴミを気にするのは、気にする人間の心のなかにゴミがあるから 

・なにか清潔できれいなもの、それがほとけだと考えるのがおかしい 

 汚ければ汚いでいいじゃないか、こだわるな。それが仏教の教え。 

・そんなゴミなんか気にするな。理想の職場などつくろうと思うな。

 いまのあるがままを最高の舞台と考えよ。それが仏教の考え方。

スマイル禅寺の和尚さんの日常を描いたエッセイマンガを読んだことがあります。
   禅寺は常に掃除をしていて、いつもきれいにしています。
   お寺というのはそういうものだと思っていましたが、
   ひろさちやさんによれば、仏教というのは「ゴミを気にしない」のだという。
   これは、「こだわらない」ということを端的な具体例で表していて、
   「うん?そうなのか???」となるのですが、
   でも、教えとしては、そうなんでしょうね。
   では禅寺はなぜいつもきれいに掃除しているのか?
   それこそ禅問答みたいに頭の中がくるくるしてきました。
   今夜はこれを考えながら寝ることになりそうです。(>。<)

 

諸法実相

・糞は糞で最高だ、味噌は味噌で最高だ、という意味 

・ばばあになれば、ばばあが最高なんだ、
 白髪になれば白髪が最高だし、禿げれば禿が最高
 

・病気になれば、しっかり病人になることが大事。
 病気であるあなたがそのままほとけ。

 病気である自分をまるごと認めて、
 その病気を楽しむ、というのが、ほとけとしての姿。
 

・わたしはなにも、病気になっても病院に行くな、
 と言っているのではない。
 病気の治療をするな、と言っているわけでもない。
 病人である自分を否定するな、と言っている。

しょんぼりこれはつまり、自己肯定感?
   「どんな自分でもOK」と思えることですかね。
   「みんなちがって、みんないい」みたいな。

 

・ありのままのその人と向かい合ったことがありますか?

 そうすればおのずから、相手の姿が見えてくるのです。

スマイルこれは、なんかすんなり理解できた気がします。
   余計な色眼鏡を排して、あるがままで相手を見、
   理解しようと努めてはじめて、相手が見えてくる。
   そうですよね?

 

自灯明、法灯明

 お釈迦さまは、「法灯明」のまえに「自灯明」をもってこられた。
 「自分自身を灯明としなさい」と言われた。

 自分自身を灯明にする、というのは、自らに由って立て、という意味。

 つまり「自由であれ」ということ。 

・家庭の中においては、自分の女房が、自分の夫が、
 自分の子どもが、自分の親が、いまあるがままでいいという、
 そこから出発してほしい。
 

・がんばる、というのも、世間の奴隷になろうとしていること。
 いまの自分を否定して、模範的な奴隷を理想だと考え、それにしばられること。

 それは自由じゃない。ちっとも自らに由って立っていない。

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本の内容は抜粋で引用しましたので、前後関係や文脈などを無視してしまい、
中には誤解を受けそうだったり、過激に思われる言葉もあったと思います。

ただ、短い言葉の中に、ひろさちやさんの文体のよさが光っている、と思います。

やっぱり「いい」「悪い」を判断してしまっていますが、
「いい」と思ったことが別の面からみると悪かったり、
「悪い」と思ったことが別の面からみるとよかったり、
ということが往々にしてあります。 

僕は、「モノサシはいろいろある」ということを知るために、
ひろさちやさんの本は役に立つのではないかなあ、と思っています。

今の、いわゆる「お前ももっと仕事がんばれよ」的な社会風潮とは
ちがった面からの指摘が、自分のモノサシを増やす、
刺激になるのではないでしょうか。

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