「教科書が、演劇の台本のように扱われている」
実は今日の20時に予約投稿していた記事があったのですが、無性に、昨日の続きを書きたくなりました。
そこで、その記事が公開される直前、19:55に予約を停止して、その記事の公開を止めました。
そして、本日分の記事として、この記事を書いています。
#基本的に記事は1日に1つまでと決めています。
#予約投稿していた記事は、また明日以降に公開します!
昨日の記事は、勤務市内のとある小学校でおこなわれた授業研究会についてでした。
対面で他校の授業研究会に参加したこと自体が、かなり久しぶりだったと思います。
「やっぱりほかの学校の授業を見に来るのっていいな」という、新鮮な感動を覚えました。
昨日見学させていただいた5年生の国語の授業。
それを見せていただいて、僕は、次のような感想をメモしていました。
上の画像は昨日もお見せした、僕のメモの一部です。
この中で、赤字で書いてあるところ。
「教科書が、演劇の台本のように扱われている」
この感想を持ったことが、僕としては、特に、新鮮な驚きでした。
僕は、「日本の一般的な授業は、もっと変わるべきではないか」というある種のイメージを持っています。
それは、今の一般的な授業よりも、もっと演劇的な要素が強いものです。
読み書き計算などの紙と鉛筆による座学による学習よりも、
立って、動いて、声に出して、やってみる学びこそ、大切にしたい。
それこそが、まさにアクティブ・ラーニングだと思っています。
僕が今年度4年生でやっていた国語の授業も、まさにそういう演劇的な要素のある授業でした。
(→過去記事参照▼【実践】漢字の読み書きが困難な子どもがみんなと共に学び合えるようにする提案授業(小4「漢字の広場」の授業) ~僕は、こう考えたんだ。~)
今回見させていただいた授業は、子どもたち自身が演じることを目的や手段にしたものではなかったのですが、授業を見る限り、テキストをどう解釈して声でどう表現するかを追求している授業でありました。
まるで、演出家同士が、どういう演出で芝居をやるかを、けんけんガクガクと顔をつきあわせて議論している場に居合わせたようでした。
少し前に、演出家の鴻上尚史さんがイギリスの演劇学校に海外留学に行ったときの本を読みました。
#これ、めっちゃおもろいです。
『ロンドン・デイズ』[ 鴻上尚史 ]
【リンクは電子書籍版】
これを読んだときにも思いましたが、日本の「授業」は、もっと授業者が教え授けるような「授業」から離れて、演劇的であるべきです。
つまり、教師が教えるのではなく、せめて演出する程度にして、もっと子どもたちの活動にゆだねるべきです。
月曜日に見せていただいたクラスでは、5年生の子どもたちが教科書を丸めて持っているシーンが見られました。
普通の授業なら、先生から怒られるかもしれません。
でも、僕はこれに感銘を受けました。
教科書を「道具」として使っているな、と思いました。
「教科書を学ぶのではなく、教科書で学ぶ」ということは、昔からよく言われることです。
「教科書」は、教材でしかありません。
大事なのは、そこから、どう学ぶかです。
P.S. 演劇の要素を授業に取り入れた実践としては、次の本がとても詳しいです。
今回見せていただいた5年生の授業とも、共通する要素があるのではと思っています。
興味がありましたら、ぜひ、読んでみてください。
『なってみる学び 演劇的手法で変わる授業と学校』
[ 渡辺貴裕 ]
▼平田オリザ『わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か』
(2022/12/04の日記)