「差別のない社会はあり得るのか」 ~荒井裕樹『どうして、もっと怒らないの?』その6
以下の本の読書メモを続けてきました。
本日で、一区切り。
最終回です。
『どうして、もっと怒らないの? 生きづらい「いま」を生き延びる術は障害者運動が教えてくれる』
(荒井裕樹、現代書館、2019、税別1700円)
連続記事です 過去記事はこちら↓
第1回→ 「障害者に『主体』があるとは思われていなかった」
第2回→ 「本当の社会参加とは」
第3回→ 「健全者がつくった空気」
第4回→ 「生きるに遠慮がいるものか」
第5回→ 「愛」という言葉も、とらえ方次第?
前回に引き続き、本書の第5話「『ポスト相模原事件』を生きる」から、覚えておきたいことのメモを続けます。
本書の終わり際の部分からの引用になります。
第5話に収録されている対談の終わりの方で、荒井さんが、次のようなことを語っておられます。
・横田さんに「差別のない社会はあり得るのか」と聞いたことがあるんです。
横田さんのお答えは「あるわけない」でした。
「健全者」が障害者を差別しない世界なんて、自分が死んで地球が1回ぶっ壊れても訪れることはない
・「差別のない社会」ではなく、差別が起きるたびに乗り越えられる社会のほうがいいし、自分が差別されたときにどう闘うかを考えたほうがいい
・愚かでどうしようもない人間は、やっぱり差別してしまう。
差別してしまう自分を認めろと。
そういうふうにしか生きられない自分を受け入れろと。
(p178より)
ここのところも、学校教育に引きつけて、大変考えさせられるところがありました。
障害児者差別だけでなく、部落差別や男女差別など、すべての「差別」に通じるところがあると思います。
学校教育では、「差別のない学校」を安直につくろうとして、分離教育が進められてきたという経緯があります。
「一緒に勉強すると、いろいろ問題があるんだ」という理由で、「分けた教育」が進められてきました。
これは、大きな反省点だと思います。
問題は、あって当たり前、起こって当たり前なのです。
上の引用箇所で僕が赤字にしたところは、僕は、死ぬまで覚えておきたいところだと思いました。
ふたをして見ないようにする教育ではなく、いっしょにぶつかり合い、考え合う教育を。
ふたをして見ないようにする社会ではなく、いっしょにぶつかり合い、考え合う社会を。
横田さんが訴えられていたことは、たいへん重要なことだと思います。
今は、「多様性尊重」の社会だと言われるようになりました。
その中で僕たちは、いいことも悪いことも引き受けて、ほんとうに多様な人たちとともに社会で過ごしていく覚悟を持っているでしょうか。
僕たちひとりひとりの覚悟が問われている気がしました。
一連の記事へのコメント、いただけると幸いです。
ともに、考えていきましょう。