「説明ではなく、物語に」 ~中野敏治『一瞬で子どもの心をつかむ15人の教師!』
世の中には素晴らしい「学校の先生」方がたくさんおられます。
学校の先生ではなくても、「学校の先生」のように、人を導き、勇気づけ、元気づけ、ともに歩もうとされる方々が、たくさんいらっしゃいます。
今日は、「15人の教師」を紹介された本の中から、「こんな先生の、こんな姿が、いいよね」という話をしようと思います。
『一瞬で子どもの心をつかむ15人の教師!』
(中野敏治、ごま書房新社、2019、税別1400円)
この本の中で紹介されている先生方はどなたも素晴らしい方で、独自のユニークな実践、おもしろい取組をたくさんされている方々です。
世の中にひろく知られている方も、比較的そうではない方もいらっしゃいます。
「こんな先生が世の中にはいるんだ!」と、目を開かされる思いで読みました。
その中でも今回は、木下晴弘先生のことを紹介されているところをひとつ、引用します。
・(略)「イラン・イラク戦争」の出来事を話されました。
でも、木下先生の話はその戦争の説明ではないのです。
その時代に生きていた「人」の物語なのです。
(p82より)
著者が木下晴弘先生の講演会に行かれたときの話です。
「説明ではない。物語だ」
というところが、とても象徴的で、普遍的なところだと感じたので、今回特に取り上げさせてもらいます。
授業によしあしがあるとすれば、それはいったいどこで判断するか?
僕は、「教師の一方的な説明になっていないか」ということを、かなり重視しています。
今回引用された箇所は講演会の話題なので、基本的には演題の演者が一方的に話す場面が想定されます。
それであっても、それは説明ではない、と言われています。
これは、非常に大切なことです。
もしも一方的に書かれた物や話されたことが、一方的ではなく双方向的なものになりうるならば、それは、そこに物語があり、世界があり、演者はそれを提供するに過ぎず、聴衆はその世界・そのもの物語の中で自由に感じたり考えたりできるということだ、と思っています。
学校の授業も同じです。
講演会と違って子どもたちと「先生」がフラットな場で対話しやすい学校の授業ならば、むしろさらにそれは実現しやすいと思います。
「説明ではなく、物語になっているかどうか」
僕は、自分が話をする際、このことをしっかり気に留めておきたいと思いました。
明日は勤務校の卒業式です。
6年生の先生方は、子どもたちに、きっとこの1年間にあった「物語」を語られると思います。
「物語」を、だいじにしよう。
P.S. 木下晴弘先生の本です。(ほかにも多数)
↓
『ココロでわかれば、人は”本気”で走り出す! 人を教え伸ばす力は「感動」にあった』
(木下晴弘)