「言葉を発することの意味」 ~工藤勇一×鴻上尚史『学校ってなんだ! 日本の教育はなぜ息苦しいのか』その4
工藤 勇一さんと鴻上尚史さんによる本
『学校ってなんだ!』
の読書メモ、第4回です。
『学校ってなんだ! 日本の教育はなぜ息苦しいのか』
(工藤 勇一×鴻上尚史、講談社現代新書、2021、税別900円)
↓これまでの記事は、コチラ。
▼第1回:「表現」。そして「身体化」
▼第2回:「考え方の違いなんて、当たり前」
▼第3回:「学ぶのは子どもだし。『わからない』ことは重要」
久しぶりに複数回に分けて書いてきた読書メモですが、今回が最終回です。
「違い」について、「教育」について、「学校」について、さらに考えていきたいと思います。
・演出家が「絆」とか「団結」とか「まとまり」みたいなことを強調するようになったところは、だいたい長続きしないですね。早めに潰れていきます。
・議論というのはまとまるためではなく、お互いの違いを確認するためにするんだよ
(p200-201 鴻上尚史さんの言葉より)
「絆」や「団結」とかの言葉、僕たちは大好きなのですが、それが上位目標になってしまうことについて、鴻上さんは警鐘を鳴らしています。
僕も、議論はまとめるためにしているところがあります。
これ、ムズカシイですね。
議論が拡散していたら、まとめるために口出しをしたくなる自分が、なかなか抑えきれません。
「違いを確認するためにする」
これって、深いです。
そもそもの目的からして、違うんですね。
・△日本中で使われる、ほとんど魂の入っていない定型のセリフ
↓
☆言葉を発することの意味を教えないといけない。
・「今日の運動会は皆さんいかがでしたか」というせりふ、
これを聞いたときにみんなどう感じるんだろう
(p217 工藤勇一先生の言葉より)
実は、まさに昨日、わが子の運動会でした。
自分の勤務校の運動会は10月に延期になったので、わが子の応援をする一方で、運動会の運営のしかたとかを、参考にさせてもらっていました。
今回、僕は勤務校の運動会で20年ぶりに放送アナウンスを担当します。
なので、わが子の運動会では、リレーの時に実況するアナウンスの言葉とかをメモして、自分が言うときのために参考にしていました。
このとき僕の頭の中に、「聞いた人はどう思うのか」という思考はありませんでした。
ただ、「仕事をやっている感」を出すために、ソツなくこなすために、使える言葉はまねをして、自分の仕事に使ってやろう、と考えていただけでした。
「とにかく何か言えばいい」という無頓着な言葉の使い方、そういえば増えているなあ、と反省しました。
「言葉を発することの意味」なんて、考えていませんでした。
いったい、なんのために言葉を習ってきたんだろう、と思います。
何も考えず、ただ、その場でありふれて使われている言葉を使って、言う方も聞く方も思考停止になっている・・・そんな状況に、工藤先生は「待った」をかけてきます。
そして、改めて、自分の使っている言葉に対して、向き合わされるのです。
工藤先生は、こう言われています。
「借り物ではない、生身の言葉というのかな、
それが皆の胸に響くんです。」
(p219 工藤勇一先生の言葉より)
工藤先生はこうも言われています。
↓
・教員2年目、子どもたちと一緒に社会をつくろうと思い始めてからですかね。
その頃から、言葉の大切さみたいなこと、そういうものを特に意識するようになった気がします。
・私の授業って、基本的にプレゼンの形式です。
そうなると常に自分の発する言葉がどう子どもたちに影響するかということを考えるわけじゃないですか。
(p247 工藤勇一先生の言葉より)
たしかに僕も、授業の中での言葉というのは、かなり考えて、言葉を選んで使っています。
ただ、今回の運動会のアナウンスなども広い意味での授業の一環だという風にとらえて、言葉を吟味しようという慎重さは、なかったです。
僕はこのブログ記事の執筆と並行して、実は自作曲の歌詞の推敲もやっているのですが、そこではかなり言葉を吟味して、ほんのちょっとの変更をするべきか、しないべきか、悩みに悩んでいます。
僕の中で、言葉を軽く使うときと、慎重に使うときの差が、激しいです。
でも、学校で教師が使う言葉は、基本的にはどの場面での言葉であっても、子どもたちに影響を与える言葉です。
意識して言葉を使っていかないといけないな、と思いました。
『学校ってなんだ!』
線を引いたところは実はもっと多くあるのですが、ひとまずブログでの紹介はここまでにしたいと思います。
最後まで読んで、ともに考えをめぐらしていただき、ありがとうございました。