「健全者がつくった空気」 ~荒井裕樹『どうして、もっと怒らないの?』その3

以下の本の読書メモを続けています。

『どうして、もっと怒らないの? 生きづらい「いま」を生き延びる術は障害者運動が教えてくれる』
(荒井裕樹、現代書館、2019、税別1700円)

連載ブログ記事です。
第1回→ 「障害者に『主体』があるとは思われていなかった」
第2回→ 「本当の社会参加とは」
本書の第1話の中だけでも、今後のために覚えておきたいことがとにかくたくさん出てきます。
とにかくどんどん書いていきます。
第2回に引き続き、第1話の対談の中での、荒井さんの言葉を引用します。


・青い芝の会の人たちは、なにかをする前から「危ない」という理由で、やりたいことを禁じられてきた人たちなんです
 「障害者のためを思って」というやさしさを装った禁止は、障害者を1人の「主体」として見てないということではないか。

(p31)
・自分にとって「危ない/危なくない」「できる/できない」の境目はどこかを判断できるようになることが大切なんです。
 そうした判断さえさせてもらえない状態を、横田さんは「障害者は自己を奪われている」と表現されていました。
(p32)
・横田さんたちには、そうやって他人に勝手に先回りをされることで行動を制限されてきた、という歴史があるわけです。
(p32)


引用が長くならないように部分的な引用にとどめていますが、ここのところはぜひ全体をつなげて続けて読んでもらいたいところです。
ぜひ原文全体を参照されますようお願いします。
第1回のブログ記事で、僕は「​『障害のある子ども』は、二重の差別を受けているのかもしれない​」と書きました。
子どもだから危ないからさせてもらえない、とか、意見を聞いてもらえないということが頻繁にある状況もふまえると、障害者だけでなく、今の日本全体で当たり前に行なわれている差別に行き着きます。
おそらく多数派の人は、「そんなの当たり前やん」と思っているのではないかと思います。しょんぼり
でも、ちょっと立ち止まって、制限される立場になって感じてみることが必要なのではないかと思います。
僕がよく話をするのは、以下の2つのエピソードです。
1つめは、自分の子どもの話です。
散髪屋に行ったら、「どんな髪型にしますか」というのを、子ども本人に聞かずに、親の僕に聞いてくるんです。
僕は、そのたびに、「子ども本人が決めるから、本人に聞いてください」と言い続けてきました。大笑い
2つめは、過去に学校で担任した子の話です。
2年生のAさんは、自分で立って歩けないので、バギーに乗っていて、常に介助の先生がそばについていました。
介助の先生がバギーを押して移動していると、子どもたちが寄ってきて、聞きました。
「今からどこいくん~?」
それを、Aさん本人ではなく、バギーを後ろから押している、介助の先生に聞くわけです。
それを見ていた僕は、子どもたちに言いました。
「Aちゃん本人に聞いてね」ウィンク
Aさん本人にあらためて聞き直した子どもたち。
とたんに、Aさんの顔がぱっと明るくなりました。
Aさんは自由に話をすることができませんが、一所懸命顔の筋肉を動かして、どこに行こうとしているのか、子どもたちに伝えようとしていました。
子どもたちには、バギーを押されているAさんは客体でしかなく、押している介助の先生こそが主体に見えたのだと思います。
でも、移動介助は、あくまでも「介助」です。
移動は本人の主体によってなされるものであり、「介助」はあくまでも本人の主体性に基づくものです。
あたかも本人に意志がないかのように、本人を飛び越えて、介助者と周囲で話をされたとしたら、それを聞いているAさんはどう思うだろうか、と思います。しょんぼり
あまりにも当たり前になりすぎている現実を、改めて問い返すことをしていきたいのです。
「共に生きる」ために。
今回の記事の最後に、荒井さんと九龍さんのそれぞれの言葉を引用します。


・荒井:
 青い芝の会の人たちは空気を読まなかったですね
 つまり、「健全者がつくった空気は、障害者を排除するためのものだから読む必要はない」と考えた。
・九龍:
 この「健全者」という言葉も、障害者に対抗して、マイノリティの側からレッテルを貼り返すための言葉なんですよね。
(p39)


当事者運動から出てきた当事者の言葉というのは大変重いです。
同時に、マイノリティの側が、主体性を取り戻す、勇気をもらえる言葉であることも多いです。
上に引用した「レッテルを貼り返す」といったことは、まさに当事者の側からしか出てこない言葉であり、発想だと思います。
僕が子どもの頃、「ビックリマンシール」というのが流行りました。
そのキャッチフレーズが、「はられたら、はりかえせ」でした。
この言葉に、わずか5文字を付け加えて、「レッテルをはられたら、はりかえせ」とする。
すると、それだけで、痛烈で痛快な逆転現象が起きます。大笑い
いつも「される側」でしかなかった側が主体に回ってやり返す姿は、痛快です。
でも、これは、対等な関係であるならば、当然起こってしかるべきことです。
あんのんとしているマジョリティは、たまにはそういう立場を経験するべきではないか、と思います。
そうでなければ、気づかない。
自分がされてみて初めて気づく。
悲しいかな、そういった現実もあるように思います。しょんぼり
荒井さんの言葉にあるように、「障害者を排除する空気」が、今の日本にはたしかにあります。
外国の話を聞くたびに、日本はそういった空気が諸外国よりも強くあることを実感せずにはおれません。
「インクルーシブ社会」や「共生社会」をほんとうに実現していくなら、その「空気」を変えなければならない。
それに気づかせてくれるのが、当事者の言葉です。
当事者側からの発信です。
こういった本でそれを知らせてくれることを、ほんとうにありがたいことだと感じます。
次回以降も、まだまだ本書を読んで感じた話を、続けていきます。
よかったら、明日もまた、見に来てください。
(平日は、なるべく20時に更新するようにしています。)

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