「集団っていうのは、多様性がなきゃだめ」 ~『教師をどう生きるか 堀裕嗣×石川晋』その3

ちがう話題をどんどん差し挟んでいるので、「週1連載」みたいになっていますが、以下の本の読書メモを書いています。

『教師をどう生きるか 堀裕嗣×石川晋』
(堀 裕嗣・石川 晋
、学事出版、2013、絶版なので、リンク先は古本です。)
今回が第3回。最終回です。スマイル
第1回→「教室で学ぶことの本質」とは ~『教師をどう生きるか 堀裕嗣×石川晋』その1
第2回→教育の本質のベースにあるもの ~『教師をどう生きるか 堀裕嗣×石川晋』その2
歯に衣着せぬ教育の本質論を戦わせる対談本。
大変おもしろいです。
この本の中に、いろんな先生がいていいんだ、といったことが書いてあり、大変共感しました。
僕自身、多数派ではなくたくさんの「先生」方のなかでは少数派だという自覚があります。
「ふつう」の先生は、まず、こんなにブログを書いたりしません。
「何やってるんだ」と思われていないかと、いつもビクビクしながら書いています。(笑)
でも、いろんな先生がいていいし、いろんな表現手段があっていい。
そこのところを肯定してもらえると、僕としては大変、勇気づけられます。
以下は、堀裕嗣先生の言葉です。


​・うちの学校だけで、50人の教師がいるけどね
 きっと何々先生が一番好きっていう生徒を1人も持たない先生はいないよね、きっと。
・だからやっぱり、職員室も学級もそうだけど、集団っていうのは、多様性がなきゃだめっていうのがあるわけ。

(p173 堀裕嗣先生の言葉より)



これは、学級崩壊を起こしてしまうような教師であっても、その先生が好きだという子どもはいる、といった文脈で語られるのですが、これは、ほんとに重要なことだと思うのです。
学級担任ですべてが決まるというような制度については、僕はどんどんゆるめていって、いろんな先生がいろんな子に関わる方がいいと思っているのですが、その理由の1つとして、いろんな先生がいていい、というのが、まず前提としてあります。
じゃあないと、僕みたいな「先生」は、救われない。(笑)
結局、学校というのは、人と人が集まって学ぶ場所だから、どれだけ多様性を包括できるか、いろんな人がいることを容認できるかが、一人ひとりの安心感に直結する。
安心できる場所だったら、みんな積極的に学んでいけるし、チャレンジもできる。
ああ、そうすると、それは「学校」だけにとどまりませんね。
「社会」そのものだ。
「社会」がどれだけ多様性を含められるかが、いきいきとした環境に直結する。
本書の最後の方、お二人の著者によって、職員室の中の多様性について、激論が交わされています。
一人の著者による本とはちがう、対談本ならではの面白さに満ちています。
これもまた、お二人が違う考えを持っているからこそ生まれる面白さだなあと思います。
石川晋先生は本書の「あとがき」のなかで、こう書かれています。


・徹底的に経験主義的だったぼくの教育観や授業観は、あのままでは始末に負えないものだったろう。
 堀くん(と系統主義思想)は、ぼくに自分の仕事の座標軸のようなものを確実に与えてくれることになって、ありがたかった。


主義思想や考え方は個人によって違うのだけれど、だからこそ、対話によって互いに気づきを与えられる。
「ちがう」ということから、豊かさが始まるのだということを再認識した次第です。ぽっ

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