教育の本質のベースにあるもの ~『教師をどう生きるか 堀裕嗣×石川晋』その2

このところ、どうも「教育の本質」から離れていた気がします。
いちおう、教育系ブログなので、「教育の本質」に向かって、思いっきり舵を切り直したいと思います。
じつは、5/18の記事で​『教師をどう生きるか 堀裕嗣×石川晋』その1​ というタイトルをつけて、「その2も書くぞ!」と匂わせていたのですが、お気づきでしたでしょうか?
匂わせていただけで終わっていました。(^^;)
じつは、「その2」の下書きは、あの翌日に投稿しようと、ずいぶん早くに書いていたのです。
それが、自然学校の引率があったり、趣味の世界に没頭していたりして、10日も日にちが経ってしまいました。
そういうわけで、5/18の記事の続きです。大笑い

『教師をどう生きるか 堀裕嗣×石川晋』
(堀 裕嗣・石川 晋
、学事出版、2013、絶版なので、リンク先は古本です。)
またまたこの本の中身から部分的に引用させていただきながら、持論も混ぜて、書いていきたいと思います。
今回も石川晋先生が本書の中の対談の中で「本質」という言葉をポロっと語られたところから引用させていただきます。
対談自体は生き物のようにうねりながら続いていって、歯に衣着せぬ応酬もあり、読んでいて大変面白いものになっています。
その中でときに「本質」論が飛び出します。
その「本質」に、僕はいたく感動しています。
以下が、僕が感動した石川晋先生の言葉です。


​・教育の本質自体は、一人ひとりの子どもを見るってことがベースでしょ。​
 そのこと自体、ゆるぎないでしょ。
(p114 石川晋先生の言葉より)



この言葉がわざわざ出てくるということは、現実には一人ひとりの子どもを見ていないと思えるようなことが往々にしてあるということで・・・。しょんぼり
ここからは、僕の持論です。
たとえば、昔からある「板書型授業」。
チョークと黒板が悪いとは言いませんが、たくさん板書がある授業の実際を見てみると・・・
先生が板書しているときに、黒板を見て書いているので、その間子どもたちのほうを全然見れていないことに気づきます。
たくさん板書している先生=子どもたちのことをあまり見れていない先生、になっていないでしょうか?
僕自身も、担任をしていた頃は、なかなか子ども一人ひとりを見ることができませんでした。
だからこそ、意識して、授業中に一人の子の顔を3秒以上目にとめてから、次の子の顔を見るようにしていました。
なんとなく子どもたちを集団として見ているうちは、子ども一人ひとりは見れていないと思います。
子ども一人ひとりを授業中に見るのは実はかなり高度なワザなので、授業経験が浅いうちは授業を進めるだけで精一杯で、なかなか実際は難しい、というのが実情です。
そこで僕がおすすめなのは、朝のあいさつです。
朝のあいさつは、登校してきた子どもたち一人ひとりに、顔を見て順番にあいさつします。
これは、「一人ひとりを見る」ことができやすい。大笑い
教師業はマルチタスクなので、「​一人ひとりの子どもを見る​」っていうベースが徹底されないまま、いろんなことをやってしまっている実情があるように思います。
教育の本質に立ち返り、本当に大切なことを、大切にしたいものです。ぽっ

「教室で学ぶことの本質」とは ~『教師をどう生きるか 堀裕嗣×石川晋』その1
 (2023/05/18の日記)

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