鳥山敏子『賢治の学校』その2 ~「いっさいのものと比べない」
石や風など、ありとあらゆるものから、いのちを感じていた賢治。
職場への行き帰りに聴いている「アドラー心理学」にも、彼に通じるものを感じます。
アドラーは「共同体感覚」の共同体の範囲を、人間だけにとどまらず、生物や無生物にまで、大きく広げて考えていたそうです。
大きな宇宙の中に生かされている「わたし」。
今日も、賢治の声を聴いてみましょう。
鳥山敏子『賢治の学校』の読書メモ、続きです。
今日は、第2章の「生徒とつながっていた賢治」からです。
『賢治の学校 宇宙のこころを感じて生きる』
(鳥山 敏子、サンマーク出版、1996、絶版)
鳥山敏子『賢治の学校』
その2
(p96から最後まで)
・賢治がいかに「比べる」ことの怖さを意識していたか
・「いっさいのものと比べない」ということは、賢治を深く理解するうえで重要なキーワードだ。
(p113より)
・子どもたちのもっている天のこころが、比較されることをどんなに深いところからいやがっているかを賢治はしっかり感じている。
(p114より)
比較することは学校教育の随所に見られますが、この弊害を強く感じていたのが賢治でした。
鳥山敏子さんは、比べない教育を実践すると、子どもたちが非常に生き生きと、本来持っていた「天のこころ」を存分に輝かせ始めることを語っています。
賢治の童話を読む際には、「いっさいのものと比べない」という思想を気に留めて読むだけで、理解がぐっと深まるのではないでしょうか。
学校教育に携わる者として、深く胸にとどめておきたいことでもあります。
・「なぜならおれは
すこしぐらいの仕事ができて
そいつに腰をかけてるような
そんな多数をいちばんいやにおもうのだ」
(p122 賢治が生徒たちに贈った詩より)
賢治に叱られたような気がした、詩の一節です。
賢治は物語を残し、詩を残すことにより、直接教えた生徒たちだけでなく、そのあとに続く多くの人たちにとっても、「先生」になりました。
僕にとっても、間違いなく、宮澤賢治は、「先生」です。
・「私の話すことは、頭で聞くんじゃない。
からだ全体で聞きなさい」
・「教科書なんかは家へ行って読めばよい」
・「教科書は、ほとんど関東、関西の例ばっかり、データが向こうのものだ。ここ花巻の自覚した農民になるには、ここのことを知れ。それには私の話を聞いたらいい。教科書は参考にならん」
(p135 教え子が語る、賢治先生の言葉より)
賢治の言葉のひとつひとつが、今の学校教育の限界を的確に表しているように思えてなりません。
たしかに、教科書は、日本の人口が多いところに寄った記述が多いかもしれません。
教科書を神格化するのではなく、教科書をどう使うかを考える頭をもつことが大切です。
学びを教科書に依存するのではなく、自らのからだで学ぶことを、もっとしていったほうがいいのでは、という気にもなりました。
・いまの教育の欠点のひとつは、正しいことと正しくないことを仕分けし、正しくないとされる部分をねじ伏せてしまうところにある。正邪、善悪、美醜、偉い偉くないの判断が何を基準になされているのか。いまの社会にとって都合よく決められたそれらを、からだのふるいにかけ、見直すことも「賢治の学校」の仕事なのである。
(p246)
宮澤賢治の童話には、誰が偉くて誰が偉くないかなどということは、ほんとうにわからないものだ、ということなどが、幾度となく、描かれています。
「虔十公園林」(けんじゅうこうえんりん)は、特にそのことを強く感じた話です。
あまり有名でない話かもしれませんが、多くの子どもたちに、そして、多くの大人たちに読んでいただきたい話です。
『虔十公園林/ざしきぼっこのはなし』 (宮沢賢治のおはなし) [ 宮沢賢治 ]
本書の著者、鳥山敏子先生は、2013年に亡くなられています。
亡くなられたその日まで、子どもたちに実際に授業をされていたそうです。
鳥山敏子先生が創設された東京賢治シュタイナー学校は、こちら。
▼東京賢治シュタイナー学校
https://www.tokyokenji-steiner.jp/