「障害者に『主体』があるとは思われていなかった」 ~荒井裕樹『どうして、もっと怒らないの?』その1
昨日のブログ記事で「ゆるすということ」について書いたのですが、今日は、逆のことを書きます。
「ゆるせないこと」というのが、強烈な動機付けとなって、行動につながるということがあります。
世の中はけっして理想的なものではなく、理不尽なことがあるので、「ゆるせない」と怒って行動していくことも、一方では必要なことではないかと思っています。
「やる気が出ないなあ」と思ってだらだらしている人の中には、「ゆるせない」という気持ちが足りないのかもしれません。
僕は「インクルーシブ教育」を自分の実践の柱の1つとして追求していこうとしています。
ただ、重要なのは、「なんのために」それをするかです。
それは、明らかに、厳然とした差別が、そこにあるからです。
障害当事者として当事者運動の中で行動しつづけた方がいらっしゃいます。
「インクルーシブ教育」を追求していくにあたり、当事者運動の先輩に学ぶこと、差別の現実を直視することは、避けては通れません。
今回から何回かにわたって、以下の本をとりあげます。
『どうして、もっと怒らないの? 生きづらい「いま」を生き延びる術は障害者運動が教えてくれる』
(荒井裕樹、現代書館、2019、税別1700円)
本書は、荒井裕樹さんが、いろんな方と対談された、対談集です。
(以前に、尾上さんと対談されたところを少しだけブログで紹介しました。)
本書の第1話「運動はすぐそばにある」では、九龍ジョーさんと対談されています。
そのなかで、障害当事者(横田弘さん)が障害者運動をするなかで実際にあった、非常に考えさせられるエピソードが出てきます。
九龍:「責任者は?」と警察が聞いて、横田さんが「私です」と答える。
それでもまだ「責任者は誰?」って警察が聞き返す。
つまり、パフォーマンスをした横田さん本人を責任者と認めないんですよね。
荒井:障害者に「主体」があるとは思われていなかったんですよ。
だからこそ、青い芝の会の「行動綱領」には「われらは、強烈な自己主張を行なう」と書いてあるんですよね。
(p24より)
「障害者に『主体』があるとは思われていなかった」ということが、まさに「差別」の状況を端的に示しています。
このエピソードは1972年に撮影されたドキュメンタリー映画「さようならCP」の中の場面のことを指していますが、僕たちの今の社会のことを顧みた時に、同じことが起こっていないと言えるでしょうか。
DVD『さようならCP』 [ 原一男 ]
僕は学校に勤めているので、特に、学校教育の中で、あまりにも「子ども」を客体としてとらえすぎているのではないかということも思います。
そうすると、もしかすると「障害のある子ども」は、二重の差別を受けているのかもしれません。
社会は偽善に満ちていて、僕自身も、多数派の論理に組み込まれ、無自覚になっています。
でも、それに気づかせてくれるのは、当事者の怒りであり、行動です。
「ゆるせないこと」が厳然とあることに、怒りの行動で気づかせてくれていることに、僕たちは気づかなければなりません。
そして、自分たちも、怒っていいんだということに、気づかなければならないと思います。
今回から何回かに分けて、本書の中の記述を引用させていただくことで、皆さんと共にいろいろなことを考えていきたいと思います。
著者の荒井裕樹さんは、本書の前に『差別されてる自覚はあるか』を出されています。
こちらも、青い芝の会の横田弘さんについて書かれた本です。
『差別されてる自覚はあるか 横田弘と青い芝の会「行動綱領」』
(荒井裕樹、現代書館、2017、2420円)
2冊とも、当事者運動からインクルーシブ教育を考える上で、大変意義深い本です。
多くの皆様に読んでいただきたいと思います。
▼NHK「合理的配慮」特集が記事に! 『「合理的配慮」がよく分かる 考え方と具体例』など
(2023/08/30の日記)
▼吉間慎一郎「社会変革のジレンマ ―伴走者と当事者の相互変容からコミュニティの相互変容へ―」
(2023/12/24の日記)