鳥山敏子『賢治の学校』その1~「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」
図書館で借りて、鳥山敏子『賢治の学校』を読みました。
『賢治の学校 宇宙のこころを感じて生きる』
(鳥山 敏子、サンマーク出版、1996、絶版)
宮澤賢治の思想が、非常によく分かる1冊です。
宮澤賢治の言葉には、ずっと前から、記憶に残っている言葉がたくさんありました。
そのなかでも、特に共感した言葉が、あります。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは
個人の幸福はあり得ない」
これを知った当初は、長い間ずっとこの言葉が頭の中に響いていました。
今でも、その通りだと思います。
この言葉の背景に広がる「宇宙のこころ」が、この本では解説されています。
鳥山敏子さんだから書ける、実践に裏打ちされた、宮澤賢治論です。
宮澤賢治は短い間でしたが、学校の先生をしていました。
そのときの教え子たちに、鳥山敏子さんは取材をされています。
非常に興味深く拝読しました。
今回は第1章の終わりまでの読書メモを書きます。
鳥山敏子『賢治の学校』
(冒頭からp95まで)
・教え子たちが思い起こすシーンのほとんどは、雲を眺めたり山や林を見たりして本当にたわいもなく喜んでいる賢治の姿だ。
(p18より)
・まっ青な空に、白い雲がただ流れていくのを見て、先生は、こころから喜ばれるのです。雲に声をかけられるのです。「おおい」と。……「いいなあ、根子君」。……損得勘定のまったくない先生なんです。
(p64-65より)
僕も自然は大好きで、コンクリートジャングルのような都会ではなく、自然と共に生き、暮らしたいと思っています。今は都市化がどんどん進んだ時代なので、そういうふうに思っている人は多いでしょうね。
映画監督の宮崎駿さんも同じように思っている人のひとりでしょう。
「風の谷のナウシカ」などを見ると、人は自然を離れては生きられない、というメッセージを強く感じます。
宮澤賢治の場合は、文学作品の中でそれを表現しただけではなく、自らその生き方をまっとうしようとしたところに、凄みを感じます。
賢治のからだは、自然と一体化するところにあったのです。
・自分の目がとまる外界、こころひかれる外界はただの外界ではなく、自らの内界の表現でもあるのだ。賢治の外界描写は、すべて賢治の内界の表現そのものである。
(p30より)
・いつも何かを意図し、こういうふうに教育してやろうというのが授業とされているが、そういうものは決して生徒には伝わらない。伝わるのは、無意識のうちにからだから溢れ出てくるものだけだ。
(p34より)
教育では教師の「意図」が大事だとよく言われます。
ただ、本書で語られるような賢治の教育は、そういった意図的教育を超えたところにあります。
あこがれざるを得ません。
本書の第1章の最後には、賢治が雑草に心を寄せ、休息時にお尻の下でつぶされる草花に思いを寄せいているところが描かれていました。
僕は子どものときから学校で「雑草を引きましょう」という草引き集会があると、
「雑草にも命があるのに、人間の勝手で引っこ抜かれるとは、かわいそう」と思っていました。
しかし、農業として野菜などを得るためには、雑草は引かねばなりません。
野菜は食べるが雑草を引くのはかわいそうだという僕は、とんだ甘ちゃんにはちがいありません。
それに比べ、賢治は農民として生きていく道を選んだのです。
農民として雑草を引かねばならない。
引かねばならないが、心で詫びながら引いている。
僕のように無責任にではなく、責任をもって自然とともに暮らしているのです。
宮澤賢治の背中から学ぶべきことは、たくさんあるように思いました。